2007年1月14日 (日)

図書館と司書の必要性は誰が決めるのか

 図書館とその専門職である司書に必要性が客観的に存在しないのであれば、そのことについていくら主張しても意味はない。
 また、図書館で仕事をし、そこの司書である人間は、普通、当然、必要だと思っている。ただ、生活のためだけに仕事をしているのではなく、それが社会にとって必要だと思っている人間ならなおさらである。
 図書館の人間が、図書館の必要性や司書の必要性を主張すると、それをすぐ保身だと言う人がいるが、そうではなく、図書館が好きで本当に必要だと思っているからである。

 なぜか。

 今のたいていの公立図書館の職員にとって、仮に図書館が廃止されたり、司書の職が廃止されたりしても、本当に困るかというと困らないのである。
 私も生活という面では困らない。

 なぜなら、私は司書の資格を持っているが、私の自治体は、司書の専門職採用をしておらず、私は一般事務職である。だから、図書館がなくなったところで、他部門へ異動すればいいだけの話で、失業するわけではない。

 司書の専門職制度を持っている数少ない自治体が、仮に図書館をなくしたとしても、職種の転換を行えばいいだけの話である。強引なことを言えば、分限免職という方向性もこれからは出てくるだろうが、一方で、そうはなかなかならない事情もある。

 なぜか。

 今は公務員が多すぎると言われている。それで、どんどん削減されているが、やがて公務員が少なくて困る時代がやってくる。
 増大する福祉部門の公務員が少なすぎて困る時が来つつある。
 だから、指定管理者導入や委託で浮いた職員は、福祉部門につぎこまれる。
 もちろん、そういうところでも悪の人買い屋が活躍するので、正規の公務員は減るだろう。でも、今、現在、正規の公務員をクビにするのは大変である。それで、ミッチーのお子さんが、行革担当になり、突破者として、公務員制度を変えようとしているわけだ。

 やがて、失業した公務員が社会問題になるだろう。なぜかというと、テロだの事件だの革命騒ぎを起こしまくるだろうから。まあ、その対策として、憲法改正して自衛軍に入れるんだろうな。江戸幕府の武士が軍隊や警察に行ったように。そんなことすれば、ニートが行くところがまたなくなってしまうだろうに。

 話がそれた。

 いずれにしろ、図書館職員が失業することを恐れて、民間委託や指定管理者制度導入に反対しているわけでは実はない。
 いや、もし、そんな危険があるなら、みんな、もっと死に物狂いで反対し、自分の図書館のサービス向上に邁進するだろう。そういう危機感がないから、「困ったねえ」くらいで済ませているのだ。
 むしろ、図書館など、役所では左遷部署なので、左遷された使えない人間が、こんなところは要らないんだと声高に叫んでいる日常である。
 本当は、「あんたが要らないのだ」と言ってやりたいところである。

 民間に、図書館の職を開放なんていうのは実はくだらない。

 なぜかというと、儲からないからだ。

 儲からないことを企業がやってどうするのだ。

 少なくとも、現場のスタッフにとってはいいことは何もない。

 民間に開放とやらで儲かるのは、人材派遣とかいう人身売買の会社だけだ。

 図書館やそこの専門職の必要性は、本来、住民が決めることである。住民の代表である首長や議員が、図書館なんかそこそこでいいと言っているんだから、それでいいではないかというのはひとつの考え方である。

 実際、住民の図書館認識が日本の図書館の程度を決めている。

 いくら、首長や議員の悪口を言ったところで、それは、住民の程度の反映なのである。アメリカやイギリスや北欧で図書館なんか適当でいいなんていう住民はそうそういない。それは、現にいいサービスを受けているからでもあるが、いいサービスを期待して、そういう政策を展開するところを行政にすえるから、図書館が発展していくのである。

 日本はその逆のスパイラルになっている。

 哀しい。

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2007年1月11日 (木)

教育としての図書館

 図書館は義務教育ではない。分野としては、社会教育や生涯学習である。

 ところで、皆さんは、社会教育と生涯学習の本質的な違いをご存知だろうか?

 生涯学習という概念が登場したからと言って、社会教育がどっか行ってしまったわけではない。
 社会教育というのは、日本独特の表現で、外国では、成人教育とか、学校外教育と表現されることが多い。

 日本の社会教育は学校外教育と言っても、そんなに間違いではない。
 学校教育と社会教育が協調して、充実した生涯教育(生涯学習)が実現するのである。

 生涯学習などということが言われるようになったのは、世の中が、とても、いわゆる義務教育だけでは足りなくなったからである。

 義務教育はいまや、共通の基盤として必要な教育というほどの意味しかなく、その他の部分は個人の選択によって補われなければならない。この選択の部分には、まったく、自発的に自分の費用で賄うべきものもあるだろうが、まあ、「選択必修科目」みたいなものもある。こういう表現は、はなはだ学校教育的だが、図書館サービスも、いわば、こういうものに該当する。
 それは、やはり、読書というのは学習(教育)の基礎だからだ。

 ここの認識が違うのなら、立場が違うとしか言いようがないが、読書というのは、人間の生涯に決定的な影響を及ぼす。

 ほりえもんみたいに、檻に入るまでは、雑誌記事と百科事典ぐらいしか読まないという人もいるのだろうが、やっぱり浅薄だ。檻の中で史記を読んで、少しは深くなったのだろうか?

 文明社会にいる限り、読書権は保障すべきだと考える。

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2007年1月10日 (水)

図書館の価値観

 図書館というものについての価値観、言い換えれば、図書館とは何のためにあるのかという存在意義ないし、図書館の使命(ミッション)というのは何か。
 これによって、図書館を公的部門が行うべきかどうかという判断がなされる。
 日本の図書館法では、図書館の目的がはっきり示されているかどうか必ずしも明確ではない。しかし、図書館「法」の目的としては、「国民の教育と文化の発展に寄与することを目的とする」(第1条)としている。ただし、これは、公立図書館だけでなく私立図書館も含む規定である。
 公立図書館あるいは公共図書館の目的・使命は、図書館学としては、「国民(住民)の知る権利や学習する権利を保障し、民主主義と自治の基盤を実現する」とでも言うことになる。
 誰かが私の事を愚民思想と言っていたが、民主主義の最大の欠点は、一見、知的にみえるソフィストによるデマゴーグ(今、ネットにはデマゴーグが溢れかえっているし、マスコミまでそうなってしまっている)に煽られ衆愚政治に陥ってしまうことである。最近の劇場政治はまさに典型である。
 図書館というシステムは、民主主義をこのデマゴーグから守る砦である。「地方自治は民主主義の学校」と言われるが、一方で、「図書館は民主主義の武器庫(アーセナル)」と言われている。「知は力なり」ということなのである。民主的権力の源泉は知にあるのである。だから、それに引っ張られて、教育の機会均等が重視され、また、教育の外部経済が言われるわけである。
 だいたい、図書館なしの知や教育など、それは、本当の学習ではない。それでは、ただの受験勉強である。
 日本の法律でも議会には図書室を置く(地方自治法)ことになっているし、公民館にも図書室を置く(社会教育法)ことになっているし、学校や大学にも図書室(図書館)を置く(学校教育法、学校図書館法、学校設置基準や大学設置基準)ことになっているが、まったくもって十分でなく、教育の場で図書館が十分に活用されていない。ここに、受験勉強や資格のための勉強は得意だが、本質的に知的な人が少ない我が国の状況の原因があると思う。
 図書館は民主主義や自治というシステムの「一部」なのである。だから、これを、公的に保障しないというのは、大きな問題なのである。それでは、十分な民主主義でも自治でもないということになるからなのである。
 だから、いくら、行財政改革を進めても、英国や米国で、日本のように極端な、「いわゆる」民営化を図書館については行わない。あのサッチャーでさえそうである。
 NYPLをすぐ持ち出す人がいるが、これは、公立図書館が普及する以前からできた、むしろ、本質的に民間から出来た公共図書館であり、「民営化」されたものではない。だいたい、この図書館自体、非常に特殊な図書館で、アメリカの大多数の公立図書館は公共部門直営である。ただし、日本と違うのは、図書館そのものの位置づけが高く、図書館が市役所の建物よりはるかに大きいというところもある。自由と民主主義の基盤だからである。図書館というのは、民主主義の知的側面での兵站なのである。兵站というのは日本にはまったくもって欠けている思想である(孫子もその重要性を説いているのに)。さらに、日本の図書館組織は特殊で、世界的には、普通、図書館は税でたしかにまかなわれる公的部門だが、教育委員会どころか図書館委員会まで存在する北欧パターン、それから、図書館理事会によって経営され、図書館長は、いわば教育委員会に出てくる教育長のような位置づけであるところが一般的なのである。そして、公立図書館の組織・予算そのものが日本の10倍あるなどというところも珍しくなく、図書館の中の部長(日本では、市町村立では図書館長はせいぜい課長レベルが普通)にまで人事権があったりするところも珍しくないのである。だから、有能なスタッフを調達できるのである。また、予算についても、図書館が独自に編成できるところもむしろ普通と言ってよく、日本と大違いである。日本では、せいぜい予算要求においての折衝だけである。教育委員会自体に予算の編成権すら、日本にはないのだから。これは、民間の方々に実に知られていない。本当に、図書館という組織は、日本では片隅なのである。
 これが、日本の「知」の位置づけである。
 「美しい国」なんて言う前に、「賢い国」を目指すべきである。


 

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2007年1月 8日 (月)

図書館に競争原理がなじまない理由

 図書館が「独占」できる業態かどうかというのは難しい問題である。何を独占というのか、そもそも難しい。

 そこで、図書館が競争できるものかという話をする。

 もちろん、ある部分では、サービスの質など競争できる。

 しかし、図書館の場合、利用者がもっともメリットを感じるのは、資料が豊富であるとか、また、レファレンスで役に立つ回答が得られるかということである。

 これらは、十分、競争できることではないかと、普通、皆さんは思うだろう。

 「競争原理」に対して、「協力原理」という言葉があるのかどうか知らないが、公立図書館の場合、実は、自治体を越えて協力して業務を行っている。

 年間に出版される本を1点ずつすべて買うと2005年の実績では、1億7千万円くらいかかる。これは、まんがも雑誌も学習参考書なども除いた、いわゆる普通の本だけでこれくらいになるということである。

 とても、小さな自治体では無理である。最初から、勝負がついている。また、小さな自治体では、そもそも職員数自体が少なく、レファレンスも安定的にこたえられるというわけではない。

 しかし、日本の公立図書館は、よほど遅れているところを除いては、区市町村立図書館に対しては、都道府県立図書館が「協力貸出」を行い、また、区市町村同士でも「相互貸借」を行っている(遅れているところは、十分行われていないのが実態だが)。

 この「図書館協力」(library cooperation)というのは、れっきとした図書館学の用語であり、図書館協力論という研究分野もある。

 図書館は、1つの建物、1つの自治体の図書館でもってして「図書館」なのではなく、全体のシステムとして「図書館」なのである。おおげさな事を言えば、世界中の図書館で1つの図書館システムなのである。実際、公共図書館ではほとんど行われていないに近いものの(やろうと思えば、本当は可能なはずである)、大学図書館では外国から文献を借りることもある。

 この図書館協力を進めるには、少なくとも、変な意味での競争があると、かえって障害になる。鉄道会社によってカードが違ってめんどうくさかったりするのと同じである。もっとも、私は、民間会社だと協力が大変だとまでは言わない。実際、鉄道会社のカードなども、徐々にではあるが共通化されてきている。

 しかし、図書館のように公立でやっている同士では、協力を進めるのははるかに簡単である。共通の土台があるからである。

 これは、公営であることの大きなメリットであると思う。

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本質追求本部さんにこたえる1

 なんか、いつの間にか、図書館民営化論議が行われているようだ。
 コメントをいただいた本質追求本部さんのものは、私とは意見は違うものの、非常に論理的できちんとしたものだ。
 私も、標題とは違って「ほどよく」ないエキセントリックな書き方をしてしまったが、プリオンさんへの反論はちょっと、また、後にすることにして、本質追求本部さんがお書きになったことについて真摯におこたえしてみたい。
 立場は違っても、こういうきちんとしたことを言ってくれる人がいるのはありがたい。こちらも本質的なことが言える。
 しかし、世の中3連休らしいが、私は土曜も日曜も祝日も仕事であるので、閑が今ないので、ゆっくりとこたえさせていただく。
 ただ、最初にお断りしておきたいのは、私は保身のために論理を展開しているわけではない。必要性がない職まで存続させろなどというつもりはない。現在の「司書」というものには、いろいろ問題も課題もあろう。しかし、やはり外国の状況なども見ると、古くさい、もはや要らなくなる職業ということでもない新たなあり方が求められている。これについては、また詳しく述べる。
 それから、公共経済学的な観点については、私も以前から考えた。それから、NPMについても本を読んだりしたが、これは、便益分析などを否定しすぎなところもあり、むしろ、かえって恣意的な感を抱いている。その他、ABCだとか行政評価の問題とかも考えねばならないが、実は、図書館の世界でもISOでパフォーマンス指標などが存在する。しかし、日本はレベルが低すぎて、指標となっている項目のようなものがあるのかどうかすら疑わしい。そういう意味で、確かに価値観の問題もある。
 最後に、もっとも大切なのだが、経済的な観点だけでなく、「自治」の問題の要素が実は非常に大きいのである。この点について、日本の政治家でよく理解しているのは、鳥取県知事の片山氏である。
 とりあえず。

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