2007年1月11日 (木)

図書館の公共性とは知の公共性である

 図書館の公共性とは、煎じ詰めれば、知の公共性である。

 ゲーム理論だの、経済学だの好きな人は、すぐ、情報の対称性だの非対称性だの言うが、はっきり言って、情報が対称であるわけない。情報は非対称だからこそ、そこにコミュニケーションが発生するのだ。ある人にとっては新しくないことでも、他の人にとっては新しいのだ。

 図書館なんか、ある意味では、既知のものばかりである。しかし、それは、人類社会全体として既知というだけであって、個々人にとっては異なる。

 出版はパブリッシュというように、公共的なものだが、読書は私的なものである。図書館は「社会知性」であり、マスコミュニケーションをパーソナルなコミュニケーションに、また、その逆に変換する装置でもある。要するに、知のリサイクル、知のエコロジーが存在している。だから、単なる「消費」ではないのだ。

 とりあえず、これから「読書」の歴史を始めてみよう。

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2007年1月 5日 (金)

2007年のテーマ

 図書館の公共性について、哲学的に検討したり、経済学的に検討したりすることもできる。しかし、私は、どうも哲学に結局、言葉の遊びのようなものを感じ、また、経済学にご都合主義的なものを感じているので、歴史的に検討してみたい。
 図書館の、いわゆる「民営化」が最近言われるわけだが、図書館は、もともと、「公共」のものとは言えなかった。王権によるもの、貴族によるもの、資産家によるもの、学者によるものであった。それが「公開」されることはあった。「民営」というより「私営」の図書館はこうして始まった。そして、そこには、やはり限界があり、「公共」の「市民」の図書館が誕生するのである。この「市民」という概念についても、いろいろと考えなければならないところがあるが、いずれにしろ、「自治」と深い結びつきで公共図書館は誕生した。従って、普通、「公共図書館」という場合、国立図書館などではなく、自治体の図書館のことになるのである。
 「公共」の担い手は、必ずしも役所ではない、という言い方は確かに正しい。しかし、自治体でないというのはどうだろうか? 「自治体」とは必ずしも役所のことばかりを指すのではない。地方自治には団体自治とともに住民自治が存在するのである。
 いわゆる役所以外の「公」が存在することを忘れてはならない。
 本当のところ、「公」と「民」とは対立概念ではない。「公」の対立概念は「私」であり、「民」の対立概念は「官」である。
 しかし、こういうこと自体、私の嫌いな言葉遊びになりそうなので、迂遠だが、長い文字や書物や読書や図書館の歴史を通じて、図書館の公共性をあぶり出してみたい。
 2007年はこのテーマを主にブログを書く。

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