教育基本法への弔辞
この国の民は
自治と独立の意味を知らない
この国の民は
真理と芸術の意味を知らない
この国の民は
平和と自由の意味を知らない
この国の民は
ちっぽけな勇気と仁義に自惚れる
結局、人間が小さいのだ
願わくは、この国の民が
山のように大きく、海のように広い
大きな道に再び還らん事を
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この国の民は
自治と独立の意味を知らない
この国の民は
真理と芸術の意味を知らない
この国の民は
平和と自由の意味を知らない
この国の民は
ちっぽけな勇気と仁義に自惚れる
結局、人間が小さいのだ
願わくは、この国の民が
山のように大きく、海のように広い
大きな道に再び還らん事を
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結局、14日に成立してしまう見込みらしい。
また、変な法律ができてしまう。
せめて、付帯決議で、国を愛する態度なるものが、国民と国家との間に特別な関係を想定するものではないこと、個人の自由を規制するものではないことを明確にしてほしいものだ。そうじゃないと、また、徴兵制だの兵役の義務だの言われかねない。
しかし、国を愛する態度がまったく個人的なものにとどまるのなら、なぜ、法律に書くのか? そうじゃないものを想定しているに違いない。
旗や歌程度なら、どうでもいい気もするが、その先が恐ろしい。強制代執行とかあるしね。
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教育基本法改正案では、「国を愛する態度」と「郷土を愛する態度」が同時に書かれている。しかし、これは、対立する場合もある。
例えば、基地の問題。国防上の都合でつくられるものが、郷土の自然環境や文化や経済・社会を損なう場合がある。はっきり言って、北海道や沖縄はすでにそうかもしれない。
あるいは、原子力発電所や再処理工場などの場合。「公共の精神」「国を愛する態度」「郷土を愛する態度」は相互に対立するかもしれない。
地域と国というものは、常に対立する要素をはらんでいるのだ。また、地域における公共と国における公共というのは摩擦を起こすこともあるのだ。
「公共の精神」と簡単に言うが、「公共」というものは、実は単一なものではない。
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科学者はまったくの愛国的態度から、殺人兵器を開発した。
原爆だってそうである。
まったくの杞憂であればよいが、教育基本法やそれに基づく法令・規則等が学問や科学のあり方まで拘束し、そこに愛国的態度を求めるようなことにならなければと思う。
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結局、教育基本法は改悪されてしまう。
改正推進派は、いじめ問題だの学力低下だのが、改正前の教育基本法で重視されている個性の尊重のせいだとしている。では、「改正」後、これらの問題が解決するだろうか。しっかり見てやりたい。結論を先に言ってしまうが、絶対に解決しない。個性を尊重しないでいじめがなくなったり、学力が向上することなど絶対にない。
もっとも、いわゆる「いじめ」をする側というのは、個性を否定する人間だから、制度自体で個性を否定してしまえば、いじめもへったくれもなくなるだろう。いじめる側がいじめ問題を解決しようとしているわけだ。これは、いじめを「いじめではない」、「いじめられる側に問題がある」というようなものだ。いじめる側の犯罪性はちっとも問われない。
それから、学力というものも、すぐれて個人的なものであって、個性なくしてありえない。学力というものを集団的なものとしてとらえる日本の知的貧困が我が国を破滅へと追いやるのである。
「自分でものを考える力」なしに、絶対に学力は向上しない。今、日本の学力が低下したと言われるのは、仔細に見れば、自分でものを考える力の部分である。読解力はその中心である。自分でものを考える力のない人は、いくら本を読んだところで賢くならない。本を読むのが大事なのは、自分でものを考え、人と協力して行動するためなのであり、何かを暗記することではない。そういうことなら、サヴァン氏症候群の人の方がよほど得意である。学校はサヴァン氏症候群を広めようとしているのだろうか。
「愛国心」などという思考停止は、学問にとってはむしろ害悪である。この思考停止によって、幾多の優秀な科学者が殺人兵器の開発に血道をあげてきたことか。
今後は、教育基本法改悪後、いかに社会が劣化していくか記録して行きたい。
もっとも、劣化していく社会を手をこまねいて見ているのも無責任なので、教育基本法改悪後、さらに、まともな教育基本法に改正するための案を考えたい。しかし、日本国憲法改悪が、次に迫っている。今の劣等国民だと平気で賛成してしまいそうで恐ろしい。戦争を実体験した人が減っていることや、昭和天皇が亡くなってだいぶ経ったことに乗じてやりたい放題だ! なぜ、日本の国民はここまで馬鹿なのだろうか。やっぱり、図書館だとか知的なものを軽視し、ちょい悪だのといったチンピラめいてよたった(かぶいた)三文文化が好きだからなのだろうか。最近、流行の自動車のデザインなどを見ていると強くそれを感じ、目を覆いたくなる。今の珍走団まがいの自動車のデザインは、まったく買う気も乗る気も起こさせない。今の自動車は程度の低い人たちのおもちゃという感じがする。
こんな珍走団の愛国心など、やくざの仁義とたいして変わらない。
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自立した個による公共というのは、つまり、古い言葉で言えば、克己復礼である。己を自分でコントロール(自律)し、社会全体の良い慣習や制度をつくりだしていくことである。
克己復礼という言葉は、あくまで克己が先である。克己というのは、自分をコントロールすることであって、自分を抹殺することではない。
自分のエゴをむき出しにするわけでもなく、しかし、自分というものをしっかり認識し、コントロールし、世界の中に自分をしっかり位置づけるとともに、世界とともにあるということである。いわば、十牛図みたいな話である。
十牛図は、決して、自分を抹殺しない。自分と同様に大事な「他の」自分もたくさんあり、それが世界であり、「自分の」自分もまた世界の「大切な」一部なのであるという認識と、それに基づく実践なのである。
こういう考えを持っていたら、いじめも自殺も存在しない。だからこそ、現行教育基本法の実践が、変てこな、いんちき「改正」より重要なのである。
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教育基本法改正論者は、個性の尊重が現行教育基本法で謳われているため、それが行き過ぎ、公共の精神が失われていると考えているらしい。
しかし、私に言わせれば、これこそ、公共の精神を失った考えである。
公共の精神とは、どこかから強制されるものではない。まさに、自立した個によって実現するものである。自立した個は、個々勝手な事をするのではなく、自分自身も大切にしながら、他の個も尊重し、お互いに協調して共存共栄を求めるのである。
個を失った公共の精神などは、何も考えない愚昧な動物のための躾である。これは、人間を奴隷視する、昔の貴族のようなものの考え方である。
公共の精神が、こんなくだらないものだったら、公共図書館で個々人に応じて本を提供するなんておかしなことになる。馬鹿な動物のようにみんな揃って同じ本を読ませることが公共図書館になってしまう。しかし、何万人・何十万人もいる利用者に同じ本を読ませるなどナンセンス極まる。同じ本ばかりそんなに揃っている図書館など、図書館とは言えない。作家たちが批判している、ベストセラーばかりざくざく揃えた図書館と大同小異である。
つまり、こんなことを考えている人たちにとって、もともと図書館など必要ないのだ。文部科学省お墨付きの教科書だけやっていればいいと思っているのだろう。道理で、歴史の教科書がどうだの必修がどうだのにこだわるわけである。
はっきり言っとくが、この複雑な世の中、学校の教科書だけ、必修科目だけでどうにかなるわけ絶対にない。その先は、必ず自分で勉強しなければならないのである。
今の日本人は勉強に対する姿勢が甘すぎる。むしろ個をしっかり確立する、現行教育基本法の精神を実現するように努力してほしい。そのためには、社会教育、図書館の充実は必須である。
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教育基本法改正論者は、現行法(昭和22年のもの)では、公共の精神が盛り込まれていないと言っている。
しかし、「公共の精神」とは何なのか? これは、よく考えないといけない。
公共の精神とか公共性というものは、個人の尊重があってのものである。私は「公共図書館」の職員だから、「公共」概念についてはこだわりがある。
現行教育基本法は個人の尊厳を重視している。そして、その上で、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」(第1条)としている。公共の精神とはまさにこのことだと思うのだが、違うのだろうか。一番最初の条文に盛り込まれているではないか。
公共の精神とは、自律的に「良い社会」を形成しようという精神のことである。自治の精神と不可分である。独立自尊と言ってもいい。また、「修身斉家治国平天下」(「論語」や「大学」)でもいい。
個人が自立し自由になり、自治の精神でもって、小さな社会からだんだんと大きな社会をお互いの協力によってまとめていき、世界平和を目指すということである。
私は儒教が個を抹殺した思想だとは思っていない。朱子学はどうだか知らないが、『論語』などを読むと、むしろまったく逆に思える。本来、「修身」とは「人格の完成」という意味だと思う。個人が自由で自立・自律して、はじめて社会が成り立つのである。だから、個人の人格陶冶は極めて重要なのである。これが教育である。現行教育基本法の目的はこれそのものではないか。これを「公共の精神」と言わないなら、一体、何を言うのだろう。
個を抹殺して、上の言うことを聞くなんていうのは、公共の精神ではない。また、多数決の暴力も公共の精神ではない。また、「やらせ」なんて、もっとも公共の精神から程遠く、私利私欲に基づく世論誘導・デマゴークそのものである。
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これは多数決の暴力だ。野党の欠席も問題かもしれないが、与党の強引な姿勢も問題だ。タウンミーティングをやらせなしでやりなおしてからにしてほしかった。
やらせ問題についての認識が軽すぎるのではないだろうか。
やらせ問題についてちゃんと調査をした上で、関係者を適切に処分し、タウンミーティングは仕切り直すのが筋だろう。そうでないと、まともな気持ちで出席した人たち(賛成・反対問わず)に失礼だ。
ここで、通さなかったら、通らないなどという代物だったら、なおさら、無理やり通さないでほしい。
教育基本法「改正」問題については、国民の関心は低い。
もっと、関心を持ってもらった上で、手続きを進めるべきである。
国民も議員もなめている。こういう発想は、中身の問題以前に、民主主義として非常によくない。やらせ民主主義なら、それはデマゴークであり、ソクラテスやキリストを死刑にした人たちのような発想である。
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いじめ問題が、なかなか解決しないのは、いじめる方に地元の有力者がかんでいるからである。親がゴミだから、子もゴミなのだろう。
夜間中学とか通信制とか、古いようだが意義のあることをもっと見直すべきだ。子どもが身につけなければならないのは、虐待されることに耐えることでもないし、また、長いものには巻かれる犬根性を養成することでもないし、復讐心でもない。単純に学力である。学力を身につけられるように、いじめという犯罪から守らなければならない。
学校という集団の中で解決するだのなんだの、甘い、甘い。偉いやつらがいじめる餓鬼の親なんだから、どこかに避難しなけりゃ解決しない。
そうして、こういう偉いやつらが、教育基本法「改正」とやらにつるんでいるんだろ。「やらせ」どころじゃない、どす黒いものが、ほじくり返せば出てくるさ。
国を愛する態度なんていう、やくざの仁義みたいなものは、所詮、苛め人間の屁理屈なのだ。俺たちの言うことを聞けということなんだろう。
大道廃れて仁義あり。
国乱れて忠臣あり。
こんなものを決めるということ自体が、「道徳」が廃れていることの現れである。上の「道徳経」または「徳道経」すなわち「老子」の言葉が物語っている。
愛国心なんていうのは、天下の大道から外れたやくざもんの義侠心なんだよ。
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