2007年1月28日 (日)

紙というメディア

 何でも電子化することが進んでいるかのように言う人がいるけれど、紙というものも立派で便利なメディアである。ポケットの中でくしゃくしゃになっても使え、コストがほとんどかからない「ちらしの裏」の便利さにかなうものはそんなにない。

 パソコンから紙に情報を送るときに、当たり前のようにプリンタということになるが、たとえば、パソコンの画面にぴたっと貼りつけると、画面が転写される紙とかいうものはできないのだろうか?

 この場合、紙の方にしかけが必要かもしれないが、すごく手軽な気がする。

 まったくの素人の馬鹿げた発想かもしれないが、紙というものも技術の産物だと思うのだ。だから、紙だってもっと進歩していいと思う。

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2007年1月21日 (日)

グーグルは気が違ったか?

 NHKのグーグルの番組を見た。NHKの演出の仕方もあるのかもしれないが、何か、ここまで検索+αで何でもできるような錯覚に陥っているのは危ないと思った。
 私自身、自分のページのURLさえ覚えていないので、自分のページをグーグルに突っ込んだりするわけだが、多くの人が上の方の5つぐらいしか見ていないというのは、多分そうだろうとは思っていたけど、愚かなことだと思う。
 何万件とかよく検索されるが、「底」まで見ると、後は似たようなページなので省略みたいな文言が出てくる。私は結構、ここまで見ることがある。暇人なのではなく、検索エンジンなんてそこまで信用していないのだ。
 図書館の職員だから、何しろ、検索ばっかりやっている。1日何百回と検索している。図書館情報学で、多少は勉強しているので、索引語と検索語の関係とかいろいろ想定はできる。しかし、本質的には言語学、あるいは、意味論の問題だと思う。認知科学方面からのアプローチが流行りのようだが、意味論をもっと深めないと駄目だ。

 そういう「意味」で、イメージ検索というのは面白い。ソシュールなんかもそうだが、言語学あたりで、ひとつのありふれた考えになっている、シンボル − 心の中のイメージ − 対象という連関から言うと、「意味」というのは、要するに、この心の中のイメージだからだ。

 抽象的な言葉でイメージ検索すると出てくるものが面白い。

 この逆をやったらどうだろうか?

 イメージから検索するのだ。

 どうやって?

 たまたま見たページのイメージを右クリックすると、この画像に関連するものを検索とか出てくる。

 まあ、イメージ検索とは言ったって、どうも、周囲の言葉から検索しているようだから、本当にそういうものとは言えないかもしれない。

 そうすると、もうひとつ重要な考えは、シンボルではなくイコンかな? 曼陀羅的な考えかもしれない。

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2007年1月15日 (月)

教育再生

 最初の報告が出るそうだ。

 「ゆとり教育」批判は結構だけど、だからと言って、詰め込めばいいというものでもない。
 真ん中にしろというわけでもない。
 ゆとりだとか詰め込みだとか、そういう次元の問題ではない。

 学力というのは、基本的に「考える力」である。

 考えるためには、認識し理解することも当然、必要になってくる。また、考えた結果を表現する力がなかったら意味がない。

 ところが、今の試験というものは、結局、記憶力のテスト、トランプの神経衰弱みたいなものであるのは、何十年も前からたいして変わっていない。

 ここを変えなきゃ何も変わらないのだ。

 実際のところ、その人が本当に考えているのかどうかというのは、時間をかけてレポートを書いてもらえば、一目瞭然でわかる。とってつけたような短時間での小論文ではだめだ。

 要するに、本を見てもいいから、というより、図書館などで、なるべくたくさんの文献を参照してもらったうえで、レポートを書いてもらった方が、その人の力などすぐわかる。こんなことは、たぶん、誰でも知っているだろう。

 ただ、これをやると手間がものすごいかかる。結局、この手間を惜しんでいるのだ。

 私の勝手な意見だが、試験をやるにしても、図書館内で本を見ても、友達と相談してもいい試験にしてしまえばいいと思う。いっそのこと試験会場は図書館にする。それに耐える試験問題を作ることは可能だ。なぜなら、大筋を理解していないと、それが書かれている本さえ探すことができない問題というのは作れるのである。

 重要なことについてこの大筋を理解しているということの方が大事なのである。そして、それを、実際の場で、いろいろなもので確かめて、自分で考え、表現できることが必要なのだ。

 結局、教育再生なんて言いながら、図書館のことは何も考えないのか。偽物だな。

 では、私が図書館学について1問。どの本を見ても、ネットでサーチしてもいいです。

問題

 DMV(デュアル・モード・ビークル)についての本にNDC、BSHともに最新版で、あなたは、どのような分類番号、件名を付与しますか。複数つけても構いませんが、その場合には、それらの関係も含め、どうしてそれを付与したのか説明してください。また、この作業を例にして、分類と件名の違いは何か説明してください。

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貧乏人の習性

 私が「貧乏人」なんて言うから、差別主義者のように思っている人もいるかもしれないが、貧乏人というのは確実にいる。そして、それはリサイクルしている。
 貧乏人はお金をもらってもギャンブルや酒に使ってしまうと書いたが、それには訳がある。
 貧乏な人は、まったく努力していないかというと、そうでもない。なにがしかはしたのである。しかし、その努力はまったく裏切られた。
 だから、つい酒も呑みたくなるし、ギャンブルでいいことないかなと思ったりするのである。
 実は、貧乏な人ほど、世の中、本当は実はまったく不公平で実力以外のところで事が運ぶのだということを知らないのである。努力でできると思っているのである。そして、その努力が裏切られるから余計、自己否定するのである。
 もちろん、努力の方向や方法が間違っているのだが、その方向や方法というのは、本人の価値観にまったくそぐわないこともあるし、また、実際、その方向や方法というものはインチキくさい。学問的真実を追究する人が出世できるとは思わない。
 図書館の司書になりたい、なんていう方向も、もはや、今の世の中では間違いである。受け入れ先がないからだ。本当は、これからの情報社会で極めて重要なはずである。しかし、誰も受け入れないなら仕方がない。図書館の司書になりたいなら、異様に試験テクニックのうまい人間になって正規で就職するか、あるいは、うだつのあがらない不安定なスタッフで甘んじるかしかない。はっきり言って、今、その二者択一しかない。第三の道を進みたいなら、自分が図書館をやるしかない。これはごく少数だがいないわけではない。
 要するに、今の大方の会社と同じかもしれない。ヒューマンスキルなんていうのは格好いい言い方で、実態はドッグスキル、つまり会社の犬となってサービス残業いとわず、本当はどうであるべきかなどということには蓋をして(〜べき、〜なければならないということは言ってはいけないことになっている)いわゆる「正規」で働くか、貧乏な非正規で働くかのどちらかしかない。
 こういうことだから、倫理などという「人間」のことわりはなくなる。犬と犬に指図される貧乏人の社会になってしまっているのだから。
 強烈な表現だが、それが実態だということをはやく悟らなければならない。世の中の流れがそうなっていることは、よく観察すればわかるだろう。

 だけど、私は絶望を販売しているわけではない。こういうことをわかった上で、正規職員なんて言ったって、所詮、わんちゃんなんだと思って、「ほどほどに」付き合ってりゃいいんだということなのである(これは正規職員自身も非正規の人も)。そして、市民として人間としての部分は確保して、さらに活動しろということである。

 もちろん、こんな大間違いは放置してはいけないので、必ず、どこかで逆襲する隙をねらって臥薪嘗胆である。

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図書館に派遣はほとんどない 

 勘違いしている人が多いのだが、公共図書館で、委託という場合、請負契約による委託がほとんどである。
 労働者派遣法に基づく派遣は、今はほとんどない。なぜかというと、派遣法の改正で、一定期間以後、雇用義務が派遣先に発生するようになったからだ。つまり、役所側は完全に使い捨ての発想で来ているのである。
 指定管理者の場合、指定管理者側のスタッフということになるが、これも、パートだとか契約社員だとかである。
 委託だとか指定管理者制度というのは、実は、公務員の保身のために行われているということを皆さんご存じなのだろうか。
 こういう部分をつくってしまえば、自分たちは傷つかないで済むのである。しかし、新しく公務員になろうという若者は大変である。
 要するに、民営化後、現場職員には正規スタッフはほとんどいないと言っていいのである。
 こういうことは、図書館を破壊する。
 ビューロクラシーのところでも述べたが、図書館にも現場と事務屋という関係を持ち込んでしまい、事務屋の方が偉いということにしてしまったのである。
 この2項対立の発想が、実に危ない。
 文民統制の軍隊が逆に現場を知らない軍事おたくに恐ろしいことをされるということはよくある。負けるに決まっている戦争をしたがる軍隊などない。
 勘違いした事務屋の係長・課長あたりに現場は無茶苦茶を強いられる。
 しかし、現場にも悪いところがある。
 ルーチンワークにどっぷりはまり、新しいことを考えないからである。しかし、これも、企画などと称して、できもしないことを事務屋が取ってしまうからである。これは、世間一般に広まっている悪弊だと思う。(もっとも、成功しているところというのは、現場が改革を進め、現場が発想しているように思う。こういうところを公務員は学ぶべきだ。)
 こんな状況で、現場は、寄せ集めのスタッフにされてしまうのである。こうして、民間委託すると、逆に官僚化するのである。寄せ集めだから専門職集団として協力していくことがやりにくいのである。いちいち上にお伺いをする仕組みに堕してしまう。
 図書館民営化や有料化の主張をする人は、それを公に求めるべきではなく、すべて、民間独自でやるべきである。公営図書館と民営図書館は共存できるが、学習権や知的自由を保障する無料の公的教育機関は確保されなければならないのである。中途半端な半官半民みたいな存在は、もっとも無駄遣いや天下りや悪い意味での公共事業の温床である。

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絶望はいけないが、根拠のない期待はしないこと

 司書になりたいという人は、たくさんいる。

 どうして、こんなにたくさんいるのか不思議である。

 おまえだって司書だろうと言われるだろう。

 私は、最初、司書なんぞに興味はなかった。図書館に、特別、人など要らないとさえ思っていた。

 啓蒙というのは厭な言葉である。愚かな民衆の目を開いてやろうという発想である。しかし、人間というものは、民衆でなくても「愚かな」存在である。考えるということをしなければ。

 馬鹿という言葉があるが、この語源は、中国で、ある王様(始皇帝の子どもらしい)を陥れようとして、馬を持ってきてこれはこういう鹿の一種だ(逆だったかもしれない)と言うと、他の家臣も追随した。王様は、馬にしか見えないのだが、家臣がみなそう言うのでそうだろうと思い、そう判断した。

 こうして、この王様はまともに判断できない愚か者であるということになってしまったのである。

 つまり、馬鹿というのはまわりでああだこうだ言う人に左右されて自分で判断できない人のことなのだ。

 そういう意味では、民衆は確かに馬鹿である。

 列島改造と言えば、そうなんだと思い、構造改革と言えば、そうなんだと思い・・・

 事実やもともとの論に基づいて判断しないといけない。そのためには、わあわあわめく人たちでなく、記録された資料や情報を収集し、比較検討し、自分で分析しないといけない。

 それを自分ですべてやるのは大変な労力とコストである。だから、図書館で情報の整理・組織化を行うことが重要であるし、かなりたくさんの資源からすんなりと提供できるようになっていることが必要である。そういう仕事なら価値があると思ったのだ。

 要するに、知のコーディネーターのような仕事である。コーディネーターだから、教え込もうという教師みたいな厭な仕事ではない。(本来は、教師も、能力を「引き出す」人であって、教え込む立場ではないのだが。)

 ところで、司書など、世間にそう思われていないし、司書自身にそこまで自覚を持っていない者も少なくない。それで、図書館はレベルの低いまま留まってしまっている。

 だから、まず、司書になりたい人に言いたいことは、不純でいいかげんな動機だったら、まず、司書なんかになるべきじゃないということ。(たとえば、勤務時間中でも本が読めるのではないかとか、ラクな仕事ではないかとか。)

 それから、正規の司書職の試験に受からなかったら、適当なところ(せいぜい2〜3年だろう)であきらめて、ちゃんと正規の社員として就職できるところに就職すべきだということ。委託や指定管理者のスタッフになったって、安いままで将来ない。どんなに努力しても、ペイが上がるのもすぐに限界がある(予算の枠内だから)。スタッフどうしで格差があるのならば、自分がたくさん取れるかもしれないが、もともとがえらく安い人たちで、どうして格差をつけられようか。

 それが日本の図書館の現実だ。

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2007年1月14日 (日)

ビューロクラシーとは

 ビューロクラシーというと官僚制のことということになっている。

 でも、私は、これは文字どおり「事務屋主義」と考えた方がいいと思う。行政に限らず、事務屋思考が肥大すると弊害が大きくなる。

 事務屋思考の反対は現場だが、「現場主義」は批判されるのに「事務屋主義」は批判されない。

 事務屋はいまや、日本の一部族である。部族存続のための理由を日々生産している。そして、経営屋とか管理屋というのが事務屋の族長軍団で最悪である。

 経営や管理も立派な専門分野だが、一専門分野に過ぎない。増長しすぎなのである。他の人より多く給料もらう理由など実はないのである。

 本当は、経営や管理も「専門職」ですからね。

 いつも思うのだが、何か問題が起こると3人揃って頭を下げる。なんか、そのときの口のきき方とか頭の角度とか研究しているところに事務屋主義の最たるものを感じる。どうでもいいけど、問題そのものを解決する姿勢はないのだろうか。

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2007年1月 8日 (月)

資格を重視することの効果

 残念ながら、図書館法に司書の規定があるにもかかわらず、まかりとおってしまっている解釈としては、公立図書館に司書を置かなければならないとはされていない。
 司書の資格とは、はなはだ心もとない資格であり、委託等の進展で、収入にも結びつかないどころか、かえって不安定さと低収入の烙印のようになりつつある。
 世間で言うところの、完全な「負け組」である。
 しかし、こういう資格をちゃんと見直し、重視した方が格差社会は是正されると思う。努力の目標がはっきりしてくるし、また、その努力の成果が他の人にも還元されるからだ。自分だけのためではない。
 「勉強は自分のためにするもの」と言う人が多いが、私は古くさいので、「勉強は、世のため、人のためにするもの」と思っている。

 中野雅至氏のライブドアニュースのインタビュー記事、まったく同感であった。

 いわく、「学歴と資格や所得を政府が結びつけようと努力するのであれば、公教育が復活して、格差の是正につながるような気がします。」

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2006年12月26日 (火)

国立図書館

 ひとつ前の記事で、ビブリオテーク・フランセーズと書いてしまったが、正しくは、ビブリオテーク・ナショナールです。
 もっとも、最近は、区別をつけるためか、ビブリオテーク・ナショナール・ドゥ・フランス(略称BNF)と言っているようだ。

 そういえば、英国図書館も、以前は、大英図書館なんて言う人も結構いた。もともとは大英博物館附属図書館だったからだろう。

 大英帝国という言葉も、考えてみれば不思議な言葉だ。グレート・ブリテンは大ブリテン島のことだから、大と英がなんで結びつくのかな?

 まあ、英国図書館もBNFもいわゆる国立図書館だが、日本はちょっと違う。国立国会図書館であって、立法府に属する図書館である。これはアメリカの議会図書館
(LC)と同じパターンである。戦後、そうなったわけである(以前は、帝国図書館)。はっきり言って、アメリカの影響である。アメリカ的民主主義と図書館は関係が非常に深いのである。

 デンマークなんかは、今でも王立図書館である。私がこの図書館に行ったとき、本当にサンタクロースみたいなおじさんがいて、今でも、記憶に残っている。

 国立図書館のあり方というのは、これはこれで、1冊の本が書けてしまう。

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ニューヨークの図書館

 図書館民営化の話を書いたら、亡者がああだこうだ言っている。

 ニューヨーク図書館システム(略称NYPL)の話をすぐ持ち出す人がいる。確かにここの図書館はいわゆる公立ではない。NPOに近いと私も思うが、そう言ったら、NPOではないと大学の先生から批判されたことがある。ここらへんはNPOの定義にもよるから、まあ置いておくにしても、ニューヨークの図書館は極めて特異な図書館であることを忘れてはならない。
 あそこは、覚醒した市民が極めて早い段階から図書館を自らつくったので、公立ではないのである。要するに、世界で、近代的公立図書館が誕生・普及する前段階からある、伝統ある図書館なのである。
 そんなところと「民営化」の話をごっちゃにしたって始まらない。そもそも、民営「化」した図書館ではないのである。

 アメリカと図書館の関係は深い。そもそも、建国理念からして関わっている。フランクリンが中心人物である。フランクリンの図書館のクラブ、そして、フィラデルフィア図書館会社という図書館の濫觴から、やがて、公立図書館が誕生するのである。

 公立図書館は王立図書館じゃない。民間のものが「公立公営化」したのである。「民営化」と逆のベクトルであるという歴史を認識しなければならない。

 ま、もっとも、ビブリオテーク・フランセーズは、革命で王のコレクションが国民のものになったわけだが、それでも「国立」である。

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