司書になりたいという人は、たくさんいる。
どうして、こんなにたくさんいるのか不思議である。
おまえだって司書だろうと言われるだろう。
私は、最初、司書なんぞに興味はなかった。図書館に、特別、人など要らないとさえ思っていた。
啓蒙というのは厭な言葉である。愚かな民衆の目を開いてやろうという発想である。しかし、人間というものは、民衆でなくても「愚かな」存在である。考えるということをしなければ。
馬鹿という言葉があるが、この語源は、中国で、ある王様(始皇帝の子どもらしい)を陥れようとして、馬を持ってきてこれはこういう鹿の一種だ(逆だったかもしれない)と言うと、他の家臣も追随した。王様は、馬にしか見えないのだが、家臣がみなそう言うのでそうだろうと思い、そう判断した。
こうして、この王様はまともに判断できない愚か者であるということになってしまったのである。
つまり、馬鹿というのはまわりでああだこうだ言う人に左右されて自分で判断できない人のことなのだ。
そういう意味では、民衆は確かに馬鹿である。
列島改造と言えば、そうなんだと思い、構造改革と言えば、そうなんだと思い・・・
事実やもともとの論に基づいて判断しないといけない。そのためには、わあわあわめく人たちでなく、記録された資料や情報を収集し、比較検討し、自分で分析しないといけない。
それを自分ですべてやるのは大変な労力とコストである。だから、図書館で情報の整理・組織化を行うことが重要であるし、かなりたくさんの資源からすんなりと提供できるようになっていることが必要である。そういう仕事なら価値があると思ったのだ。
要するに、知のコーディネーターのような仕事である。コーディネーターだから、教え込もうという教師みたいな厭な仕事ではない。(本来は、教師も、能力を「引き出す」人であって、教え込む立場ではないのだが。)
ところで、司書など、世間にそう思われていないし、司書自身にそこまで自覚を持っていない者も少なくない。それで、図書館はレベルの低いまま留まってしまっている。
だから、まず、司書になりたい人に言いたいことは、不純でいいかげんな動機だったら、まず、司書なんかになるべきじゃないということ。(たとえば、勤務時間中でも本が読めるのではないかとか、ラクな仕事ではないかとか。)
それから、正規の司書職の試験に受からなかったら、適当なところ(せいぜい2〜3年だろう)であきらめて、ちゃんと正規の社員として就職できるところに就職すべきだということ。委託や指定管理者のスタッフになったって、安いままで将来ない。どんなに努力しても、ペイが上がるのもすぐに限界がある(予算の枠内だから)。スタッフどうしで格差があるのならば、自分がたくさん取れるかもしれないが、もともとがえらく安い人たちで、どうして格差をつけられようか。
それが日本の図書館の現実だ。
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