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2007年1月28日 (日)

紙というメディア

 何でも電子化することが進んでいるかのように言う人がいるけれど、紙というものも立派で便利なメディアである。ポケットの中でくしゃくしゃになっても使え、コストがほとんどかからない「ちらしの裏」の便利さにかなうものはそんなにない。

 パソコンから紙に情報を送るときに、当たり前のようにプリンタということになるが、たとえば、パソコンの画面にぴたっと貼りつけると、画面が転写される紙とかいうものはできないのだろうか?

 この場合、紙の方にしかけが必要かもしれないが、すごく手軽な気がする。

 まったくの素人の馬鹿げた発想かもしれないが、紙というものも技術の産物だと思うのだ。だから、紙だってもっと進歩していいと思う。

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2007年1月21日 (日)

グーグルは気が違ったか?

 NHKのグーグルの番組を見た。NHKの演出の仕方もあるのかもしれないが、何か、ここまで検索+αで何でもできるような錯覚に陥っているのは危ないと思った。
 私自身、自分のページのURLさえ覚えていないので、自分のページをグーグルに突っ込んだりするわけだが、多くの人が上の方の5つぐらいしか見ていないというのは、多分そうだろうとは思っていたけど、愚かなことだと思う。
 何万件とかよく検索されるが、「底」まで見ると、後は似たようなページなので省略みたいな文言が出てくる。私は結構、ここまで見ることがある。暇人なのではなく、検索エンジンなんてそこまで信用していないのだ。
 図書館の職員だから、何しろ、検索ばっかりやっている。1日何百回と検索している。図書館情報学で、多少は勉強しているので、索引語と検索語の関係とかいろいろ想定はできる。しかし、本質的には言語学、あるいは、意味論の問題だと思う。認知科学方面からのアプローチが流行りのようだが、意味論をもっと深めないと駄目だ。

 そういう「意味」で、イメージ検索というのは面白い。ソシュールなんかもそうだが、言語学あたりで、ひとつのありふれた考えになっている、シンボル − 心の中のイメージ − 対象という連関から言うと、「意味」というのは、要するに、この心の中のイメージだからだ。

 抽象的な言葉でイメージ検索すると出てくるものが面白い。

 この逆をやったらどうだろうか?

 イメージから検索するのだ。

 どうやって?

 たまたま見たページのイメージを右クリックすると、この画像に関連するものを検索とか出てくる。

 まあ、イメージ検索とは言ったって、どうも、周囲の言葉から検索しているようだから、本当にそういうものとは言えないかもしれない。

 そうすると、もうひとつ重要な考えは、シンボルではなくイコンかな? 曼陀羅的な考えかもしれない。

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2007年1月15日 (月)

教育再生

 最初の報告が出るそうだ。

 「ゆとり教育」批判は結構だけど、だからと言って、詰め込めばいいというものでもない。
 真ん中にしろというわけでもない。
 ゆとりだとか詰め込みだとか、そういう次元の問題ではない。

 学力というのは、基本的に「考える力」である。

 考えるためには、認識し理解することも当然、必要になってくる。また、考えた結果を表現する力がなかったら意味がない。

 ところが、今の試験というものは、結局、記憶力のテスト、トランプの神経衰弱みたいなものであるのは、何十年も前からたいして変わっていない。

 ここを変えなきゃ何も変わらないのだ。

 実際のところ、その人が本当に考えているのかどうかというのは、時間をかけてレポートを書いてもらえば、一目瞭然でわかる。とってつけたような短時間での小論文ではだめだ。

 要するに、本を見てもいいから、というより、図書館などで、なるべくたくさんの文献を参照してもらったうえで、レポートを書いてもらった方が、その人の力などすぐわかる。こんなことは、たぶん、誰でも知っているだろう。

 ただ、これをやると手間がものすごいかかる。結局、この手間を惜しんでいるのだ。

 私の勝手な意見だが、試験をやるにしても、図書館内で本を見ても、友達と相談してもいい試験にしてしまえばいいと思う。いっそのこと試験会場は図書館にする。それに耐える試験問題を作ることは可能だ。なぜなら、大筋を理解していないと、それが書かれている本さえ探すことができない問題というのは作れるのである。

 重要なことについてこの大筋を理解しているということの方が大事なのである。そして、それを、実際の場で、いろいろなもので確かめて、自分で考え、表現できることが必要なのだ。

 結局、教育再生なんて言いながら、図書館のことは何も考えないのか。偽物だな。

 では、私が図書館学について1問。どの本を見ても、ネットでサーチしてもいいです。

問題

 DMV(デュアル・モード・ビークル)についての本にNDC、BSHともに最新版で、あなたは、どのような分類番号、件名を付与しますか。複数つけても構いませんが、その場合には、それらの関係も含め、どうしてそれを付与したのか説明してください。また、この作業を例にして、分類と件名の違いは何か説明してください。

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知組織学

 図書館学あるいは図書館情報学では、従来から、分類論、目録論、索引論、抄録論、書誌論など、あるいは、これらをまとめて、資料組織化ないし情報組織化論というのがあった。
 要するに、知をどのように体系づけ、利用できるようにするかという課題である。
 ただし、この場合、知というのが、結局、本であったり、その他の情報メディアであったりしたわけだ。
 これからは、知そのものの組織化を考えないといけない。自然言語処理のようなアプローチは以前からあるが、もっと根本的なものも考えないといけない。組織化とは言ったが、もともと、もっとアモルフな知という認識も必要と思う。
 すでに、国際学会では、知識組織学会というのがある。

 国会図書館のカレント・アウェアネスの次の記事は大変、示唆に富んでいる。

 戦略としての知識組織化研究

 しかし、私は、いわゆるナレッジ・マネジメトも含めて、知組織学というのを構築するべきであると思う。現実の制度的図書館がどうあるべきかという論議を超えて、人類にとっては必要なものだ。

 この場合の、組織というのは、なにかしら体系付けられた知へのインデクスというだけではなく、その生成や人間組織の中での流通・変化も視野に入れるべきである。

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司書になりたい人へ

 すみません。
 もう駄目です。
 敗北です。

 よってたかって、図書館は駄目にされました。

 それでもなりたい人はアフガン復興のような心持ちでやるしかないかもしれません。

 たぶん、書物が駄目になる国というのは、先が見えていると思います。

 それで、愛国心で引き留めようとするのですよ。

というくらいの暗ーい気持ち・・・。

 ときに100倍を超える試験を突破するか、あるいは、委託の不安定労働者で、時給800〜900円くらいで我慢するか。まあ、いろいろ探せば、非常勤などなら、もっと条件のいいところも。まずは「われわれの館」あたりでリサーチを。

 くれぐれも無理しないように。

 不安定労働者でも切り詰めれば暮らせなくはないが、親だっていつ病気になるかわからない(というか、大半は病気になる)。それから、借金なんか絶対しないぞと思ったって、自分が身内に貸す羽目になったりすることもある。いわゆる不良債権である。それは、結局、借りているのと同じこと。

 日本人の死因はがんや脳卒中が圧倒的。親の健康状況を常にチェックして、大事に至らないように注意しよう。アルツハイマーもはっきり言って悲惨だから、これについても早期で見つけられるように注意しよう。

 生きにくい時代になったものだ。

 厭なやつ、馬鹿なやつほど出世する。藪を見ていると馬鹿の統領という感じがする。

 大道廃れて仁義有り
 国乱れて忠臣有り(老子)

 巧言令色鮮し仁(論語)

 今日はお休みの日だから、いっぱい書いちゃったな。そのうち、こんな休みもなくなるだろう。べつにかまわないけど。

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貧乏人の習性

 私が「貧乏人」なんて言うから、差別主義者のように思っている人もいるかもしれないが、貧乏人というのは確実にいる。そして、それはリサイクルしている。
 貧乏人はお金をもらってもギャンブルや酒に使ってしまうと書いたが、それには訳がある。
 貧乏な人は、まったく努力していないかというと、そうでもない。なにがしかはしたのである。しかし、その努力はまったく裏切られた。
 だから、つい酒も呑みたくなるし、ギャンブルでいいことないかなと思ったりするのである。
 実は、貧乏な人ほど、世の中、本当は実はまったく不公平で実力以外のところで事が運ぶのだということを知らないのである。努力でできると思っているのである。そして、その努力が裏切られるから余計、自己否定するのである。
 もちろん、努力の方向や方法が間違っているのだが、その方向や方法というのは、本人の価値観にまったくそぐわないこともあるし、また、実際、その方向や方法というものはインチキくさい。学問的真実を追究する人が出世できるとは思わない。
 図書館の司書になりたい、なんていう方向も、もはや、今の世の中では間違いである。受け入れ先がないからだ。本当は、これからの情報社会で極めて重要なはずである。しかし、誰も受け入れないなら仕方がない。図書館の司書になりたいなら、異様に試験テクニックのうまい人間になって正規で就職するか、あるいは、うだつのあがらない不安定なスタッフで甘んじるかしかない。はっきり言って、今、その二者択一しかない。第三の道を進みたいなら、自分が図書館をやるしかない。これはごく少数だがいないわけではない。
 要するに、今の大方の会社と同じかもしれない。ヒューマンスキルなんていうのは格好いい言い方で、実態はドッグスキル、つまり会社の犬となってサービス残業いとわず、本当はどうであるべきかなどということには蓋をして(〜べき、〜なければならないということは言ってはいけないことになっている)いわゆる「正規」で働くか、貧乏な非正規で働くかのどちらかしかない。
 こういうことだから、倫理などという「人間」のことわりはなくなる。犬と犬に指図される貧乏人の社会になってしまっているのだから。
 強烈な表現だが、それが実態だということをはやく悟らなければならない。世の中の流れがそうなっていることは、よく観察すればわかるだろう。

 だけど、私は絶望を販売しているわけではない。こういうことをわかった上で、正規職員なんて言ったって、所詮、わんちゃんなんだと思って、「ほどほどに」付き合ってりゃいいんだということなのである(これは正規職員自身も非正規の人も)。そして、市民として人間としての部分は確保して、さらに活動しろということである。

 もちろん、こんな大間違いは放置してはいけないので、必ず、どこかで逆襲する隙をねらって臥薪嘗胆である。

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図書館に派遣はほとんどない 

 勘違いしている人が多いのだが、公共図書館で、委託という場合、請負契約による委託がほとんどである。
 労働者派遣法に基づく派遣は、今はほとんどない。なぜかというと、派遣法の改正で、一定期間以後、雇用義務が派遣先に発生するようになったからだ。つまり、役所側は完全に使い捨ての発想で来ているのである。
 指定管理者の場合、指定管理者側のスタッフということになるが、これも、パートだとか契約社員だとかである。
 委託だとか指定管理者制度というのは、実は、公務員の保身のために行われているということを皆さんご存じなのだろうか。
 こういう部分をつくってしまえば、自分たちは傷つかないで済むのである。しかし、新しく公務員になろうという若者は大変である。
 要するに、民営化後、現場職員には正規スタッフはほとんどいないと言っていいのである。
 こういうことは、図書館を破壊する。
 ビューロクラシーのところでも述べたが、図書館にも現場と事務屋という関係を持ち込んでしまい、事務屋の方が偉いということにしてしまったのである。
 この2項対立の発想が、実に危ない。
 文民統制の軍隊が逆に現場を知らない軍事おたくに恐ろしいことをされるということはよくある。負けるに決まっている戦争をしたがる軍隊などない。
 勘違いした事務屋の係長・課長あたりに現場は無茶苦茶を強いられる。
 しかし、現場にも悪いところがある。
 ルーチンワークにどっぷりはまり、新しいことを考えないからである。しかし、これも、企画などと称して、できもしないことを事務屋が取ってしまうからである。これは、世間一般に広まっている悪弊だと思う。(もっとも、成功しているところというのは、現場が改革を進め、現場が発想しているように思う。こういうところを公務員は学ぶべきだ。)
 こんな状況で、現場は、寄せ集めのスタッフにされてしまうのである。こうして、民間委託すると、逆に官僚化するのである。寄せ集めだから専門職集団として協力していくことがやりにくいのである。いちいち上にお伺いをする仕組みに堕してしまう。
 図書館民営化や有料化の主張をする人は、それを公に求めるべきではなく、すべて、民間独自でやるべきである。公営図書館と民営図書館は共存できるが、学習権や知的自由を保障する無料の公的教育機関は確保されなければならないのである。中途半端な半官半民みたいな存在は、もっとも無駄遣いや天下りや悪い意味での公共事業の温床である。

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絶望はいけないが、根拠のない期待はしないこと

 司書になりたいという人は、たくさんいる。

 どうして、こんなにたくさんいるのか不思議である。

 おまえだって司書だろうと言われるだろう。

 私は、最初、司書なんぞに興味はなかった。図書館に、特別、人など要らないとさえ思っていた。

 啓蒙というのは厭な言葉である。愚かな民衆の目を開いてやろうという発想である。しかし、人間というものは、民衆でなくても「愚かな」存在である。考えるということをしなければ。

 馬鹿という言葉があるが、この語源は、中国で、ある王様(始皇帝の子どもらしい)を陥れようとして、馬を持ってきてこれはこういう鹿の一種だ(逆だったかもしれない)と言うと、他の家臣も追随した。王様は、馬にしか見えないのだが、家臣がみなそう言うのでそうだろうと思い、そう判断した。

 こうして、この王様はまともに判断できない愚か者であるということになってしまったのである。

 つまり、馬鹿というのはまわりでああだこうだ言う人に左右されて自分で判断できない人のことなのだ。

 そういう意味では、民衆は確かに馬鹿である。

 列島改造と言えば、そうなんだと思い、構造改革と言えば、そうなんだと思い・・・

 事実やもともとの論に基づいて判断しないといけない。そのためには、わあわあわめく人たちでなく、記録された資料や情報を収集し、比較検討し、自分で分析しないといけない。

 それを自分ですべてやるのは大変な労力とコストである。だから、図書館で情報の整理・組織化を行うことが重要であるし、かなりたくさんの資源からすんなりと提供できるようになっていることが必要である。そういう仕事なら価値があると思ったのだ。

 要するに、知のコーディネーターのような仕事である。コーディネーターだから、教え込もうという教師みたいな厭な仕事ではない。(本来は、教師も、能力を「引き出す」人であって、教え込む立場ではないのだが。)

 ところで、司書など、世間にそう思われていないし、司書自身にそこまで自覚を持っていない者も少なくない。それで、図書館はレベルの低いまま留まってしまっている。

 だから、まず、司書になりたい人に言いたいことは、不純でいいかげんな動機だったら、まず、司書なんかになるべきじゃないということ。(たとえば、勤務時間中でも本が読めるのではないかとか、ラクな仕事ではないかとか。)

 それから、正規の司書職の試験に受からなかったら、適当なところ(せいぜい2〜3年だろう)であきらめて、ちゃんと正規の社員として就職できるところに就職すべきだということ。委託や指定管理者のスタッフになったって、安いままで将来ない。どんなに努力しても、ペイが上がるのもすぐに限界がある(予算の枠内だから)。スタッフどうしで格差があるのならば、自分がたくさん取れるかもしれないが、もともとがえらく安い人たちで、どうして格差をつけられようか。

 それが日本の図書館の現実だ。

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2007年1月14日 (日)

ビューロクラシーとは

 ビューロクラシーというと官僚制のことということになっている。

 でも、私は、これは文字どおり「事務屋主義」と考えた方がいいと思う。行政に限らず、事務屋思考が肥大すると弊害が大きくなる。

 事務屋思考の反対は現場だが、「現場主義」は批判されるのに「事務屋主義」は批判されない。

 事務屋はいまや、日本の一部族である。部族存続のための理由を日々生産している。そして、経営屋とか管理屋というのが事務屋の族長軍団で最悪である。

 経営や管理も立派な専門分野だが、一専門分野に過ぎない。増長しすぎなのである。他の人より多く給料もらう理由など実はないのである。

 本当は、経営や管理も「専門職」ですからね。

 いつも思うのだが、何か問題が起こると3人揃って頭を下げる。なんか、そのときの口のきき方とか頭の角度とか研究しているところに事務屋主義の最たるものを感じる。どうでもいいけど、問題そのものを解決する姿勢はないのだろうか。

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図書館と司書の必要性は誰が決めるのか

 図書館とその専門職である司書に必要性が客観的に存在しないのであれば、そのことについていくら主張しても意味はない。
 また、図書館で仕事をし、そこの司書である人間は、普通、当然、必要だと思っている。ただ、生活のためだけに仕事をしているのではなく、それが社会にとって必要だと思っている人間ならなおさらである。
 図書館の人間が、図書館の必要性や司書の必要性を主張すると、それをすぐ保身だと言う人がいるが、そうではなく、図書館が好きで本当に必要だと思っているからである。

 なぜか。

 今のたいていの公立図書館の職員にとって、仮に図書館が廃止されたり、司書の職が廃止されたりしても、本当に困るかというと困らないのである。
 私も生活という面では困らない。

 なぜなら、私は司書の資格を持っているが、私の自治体は、司書の専門職採用をしておらず、私は一般事務職である。だから、図書館がなくなったところで、他部門へ異動すればいいだけの話で、失業するわけではない。

 司書の専門職制度を持っている数少ない自治体が、仮に図書館をなくしたとしても、職種の転換を行えばいいだけの話である。強引なことを言えば、分限免職という方向性もこれからは出てくるだろうが、一方で、そうはなかなかならない事情もある。

 なぜか。

 今は公務員が多すぎると言われている。それで、どんどん削減されているが、やがて公務員が少なくて困る時代がやってくる。
 増大する福祉部門の公務員が少なすぎて困る時が来つつある。
 だから、指定管理者導入や委託で浮いた職員は、福祉部門につぎこまれる。
 もちろん、そういうところでも悪の人買い屋が活躍するので、正規の公務員は減るだろう。でも、今、現在、正規の公務員をクビにするのは大変である。それで、ミッチーのお子さんが、行革担当になり、突破者として、公務員制度を変えようとしているわけだ。

 やがて、失業した公務員が社会問題になるだろう。なぜかというと、テロだの事件だの革命騒ぎを起こしまくるだろうから。まあ、その対策として、憲法改正して自衛軍に入れるんだろうな。江戸幕府の武士が軍隊や警察に行ったように。そんなことすれば、ニートが行くところがまたなくなってしまうだろうに。

 話がそれた。

 いずれにしろ、図書館職員が失業することを恐れて、民間委託や指定管理者制度導入に反対しているわけでは実はない。
 いや、もし、そんな危険があるなら、みんな、もっと死に物狂いで反対し、自分の図書館のサービス向上に邁進するだろう。そういう危機感がないから、「困ったねえ」くらいで済ませているのだ。
 むしろ、図書館など、役所では左遷部署なので、左遷された使えない人間が、こんなところは要らないんだと声高に叫んでいる日常である。
 本当は、「あんたが要らないのだ」と言ってやりたいところである。

 民間に、図書館の職を開放なんていうのは実はくだらない。

 なぜかというと、儲からないからだ。

 儲からないことを企業がやってどうするのだ。

 少なくとも、現場のスタッフにとってはいいことは何もない。

 民間に開放とやらで儲かるのは、人材派遣とかいう人身売買の会社だけだ。

 図書館やそこの専門職の必要性は、本来、住民が決めることである。住民の代表である首長や議員が、図書館なんかそこそこでいいと言っているんだから、それでいいではないかというのはひとつの考え方である。

 実際、住民の図書館認識が日本の図書館の程度を決めている。

 いくら、首長や議員の悪口を言ったところで、それは、住民の程度の反映なのである。アメリカやイギリスや北欧で図書館なんか適当でいいなんていう住民はそうそういない。それは、現にいいサービスを受けているからでもあるが、いいサービスを期待して、そういう政策を展開するところを行政にすえるから、図書館が発展していくのである。

 日本はその逆のスパイラルになっている。

 哀しい。

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2007年1月11日 (木)

教育としての図書館

 図書館は義務教育ではない。分野としては、社会教育や生涯学習である。

 ところで、皆さんは、社会教育と生涯学習の本質的な違いをご存知だろうか?

 生涯学習という概念が登場したからと言って、社会教育がどっか行ってしまったわけではない。
 社会教育というのは、日本独特の表現で、外国では、成人教育とか、学校外教育と表現されることが多い。

 日本の社会教育は学校外教育と言っても、そんなに間違いではない。
 学校教育と社会教育が協調して、充実した生涯教育(生涯学習)が実現するのである。

 生涯学習などということが言われるようになったのは、世の中が、とても、いわゆる義務教育だけでは足りなくなったからである。

 義務教育はいまや、共通の基盤として必要な教育というほどの意味しかなく、その他の部分は個人の選択によって補われなければならない。この選択の部分には、まったく、自発的に自分の費用で賄うべきものもあるだろうが、まあ、「選択必修科目」みたいなものもある。こういう表現は、はなはだ学校教育的だが、図書館サービスも、いわば、こういうものに該当する。
 それは、やはり、読書というのは学習(教育)の基礎だからだ。

 ここの認識が違うのなら、立場が違うとしか言いようがないが、読書というのは、人間の生涯に決定的な影響を及ぼす。

 ほりえもんみたいに、檻に入るまでは、雑誌記事と百科事典ぐらいしか読まないという人もいるのだろうが、やっぱり浅薄だ。檻の中で史記を読んで、少しは深くなったのだろうか?

 文明社会にいる限り、読書権は保障すべきだと考える。

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図書館の公共性とは知の公共性である

 図書館の公共性とは、煎じ詰めれば、知の公共性である。

 ゲーム理論だの、経済学だの好きな人は、すぐ、情報の対称性だの非対称性だの言うが、はっきり言って、情報が対称であるわけない。情報は非対称だからこそ、そこにコミュニケーションが発生するのだ。ある人にとっては新しくないことでも、他の人にとっては新しいのだ。

 図書館なんか、ある意味では、既知のものばかりである。しかし、それは、人類社会全体として既知というだけであって、個々人にとっては異なる。

 出版はパブリッシュというように、公共的なものだが、読書は私的なものである。図書館は「社会知性」であり、マスコミュニケーションをパーソナルなコミュニケーションに、また、その逆に変換する装置でもある。要するに、知のリサイクル、知のエコロジーが存在している。だから、単なる「消費」ではないのだ。

 とりあえず、これから「読書」の歴史を始めてみよう。

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司書の品格

 ま、ドラマ「派遣の品格」じゃないけど、委託スタッフの司書でも、時給3000円あげれば、品格は保たれるな。そのくらい普通にあげるんだったら、私は、委託も反対しないよ。
 実際は800〜900円だけどね。

 というか、時給3000円くれるんなら、役所で関係ないところに異動させられるよりましだから、私がスタッフになってもいい。そんなに強欲じゃないんだ。私は。どうせ、出世できるわけでもないし。

 しかし、行財政改革なんて言っているのに、管理職だけ退職金引き上げやがって、ものすごいむかつくなあ。何も仕事していないのに・・・

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派遣の品格

 どうせフィクションだと考えると面白かったけれど、あまりにも有り得ない話ばっかりだったなあ。
 時給3000円の事務仕事の派遣なんてあるのかね〜。
 それで、どうして人件費の削減になるのだろう?

 私なんかは、ヒラは派遣なんか廃止して、課長とか部長以上の管理職からしか派遣は駄目だっていうことにすればいいと思う。

 できる人を管理職として派遣にした方がよっぽど役に立つよ。

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2007年1月10日 (水)

図書館の価値観

 図書館というものについての価値観、言い換えれば、図書館とは何のためにあるのかという存在意義ないし、図書館の使命(ミッション)というのは何か。
 これによって、図書館を公的部門が行うべきかどうかという判断がなされる。
 日本の図書館法では、図書館の目的がはっきり示されているかどうか必ずしも明確ではない。しかし、図書館「法」の目的としては、「国民の教育と文化の発展に寄与することを目的とする」(第1条)としている。ただし、これは、公立図書館だけでなく私立図書館も含む規定である。
 公立図書館あるいは公共図書館の目的・使命は、図書館学としては、「国民(住民)の知る権利や学習する権利を保障し、民主主義と自治の基盤を実現する」とでも言うことになる。
 誰かが私の事を愚民思想と言っていたが、民主主義の最大の欠点は、一見、知的にみえるソフィストによるデマゴーグ(今、ネットにはデマゴーグが溢れかえっているし、マスコミまでそうなってしまっている)に煽られ衆愚政治に陥ってしまうことである。最近の劇場政治はまさに典型である。
 図書館というシステムは、民主主義をこのデマゴーグから守る砦である。「地方自治は民主主義の学校」と言われるが、一方で、「図書館は民主主義の武器庫(アーセナル)」と言われている。「知は力なり」ということなのである。民主的権力の源泉は知にあるのである。だから、それに引っ張られて、教育の機会均等が重視され、また、教育の外部経済が言われるわけである。
 だいたい、図書館なしの知や教育など、それは、本当の学習ではない。それでは、ただの受験勉強である。
 日本の法律でも議会には図書室を置く(地方自治法)ことになっているし、公民館にも図書室を置く(社会教育法)ことになっているし、学校や大学にも図書室(図書館)を置く(学校教育法、学校図書館法、学校設置基準や大学設置基準)ことになっているが、まったくもって十分でなく、教育の場で図書館が十分に活用されていない。ここに、受験勉強や資格のための勉強は得意だが、本質的に知的な人が少ない我が国の状況の原因があると思う。
 図書館は民主主義や自治というシステムの「一部」なのである。だから、これを、公的に保障しないというのは、大きな問題なのである。それでは、十分な民主主義でも自治でもないということになるからなのである。
 だから、いくら、行財政改革を進めても、英国や米国で、日本のように極端な、「いわゆる」民営化を図書館については行わない。あのサッチャーでさえそうである。
 NYPLをすぐ持ち出す人がいるが、これは、公立図書館が普及する以前からできた、むしろ、本質的に民間から出来た公共図書館であり、「民営化」されたものではない。だいたい、この図書館自体、非常に特殊な図書館で、アメリカの大多数の公立図書館は公共部門直営である。ただし、日本と違うのは、図書館そのものの位置づけが高く、図書館が市役所の建物よりはるかに大きいというところもある。自由と民主主義の基盤だからである。図書館というのは、民主主義の知的側面での兵站なのである。兵站というのは日本にはまったくもって欠けている思想である(孫子もその重要性を説いているのに)。さらに、日本の図書館組織は特殊で、世界的には、普通、図書館は税でたしかにまかなわれる公的部門だが、教育委員会どころか図書館委員会まで存在する北欧パターン、それから、図書館理事会によって経営され、図書館長は、いわば教育委員会に出てくる教育長のような位置づけであるところが一般的なのである。そして、公立図書館の組織・予算そのものが日本の10倍あるなどというところも珍しくなく、図書館の中の部長(日本では、市町村立では図書館長はせいぜい課長レベルが普通)にまで人事権があったりするところも珍しくないのである。だから、有能なスタッフを調達できるのである。また、予算についても、図書館が独自に編成できるところもむしろ普通と言ってよく、日本と大違いである。日本では、せいぜい予算要求においての折衝だけである。教育委員会自体に予算の編成権すら、日本にはないのだから。これは、民間の方々に実に知られていない。本当に、図書館という組織は、日本では片隅なのである。
 これが、日本の「知」の位置づけである。
 「美しい国」なんて言う前に、「賢い国」を目指すべきである。


 

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2007年1月 8日 (月)

資格を重視することの効果

 残念ながら、図書館法に司書の規定があるにもかかわらず、まかりとおってしまっている解釈としては、公立図書館に司書を置かなければならないとはされていない。
 司書の資格とは、はなはだ心もとない資格であり、委託等の進展で、収入にも結びつかないどころか、かえって不安定さと低収入の烙印のようになりつつある。
 世間で言うところの、完全な「負け組」である。
 しかし、こういう資格をちゃんと見直し、重視した方が格差社会は是正されると思う。努力の目標がはっきりしてくるし、また、その努力の成果が他の人にも還元されるからだ。自分だけのためではない。
 「勉強は自分のためにするもの」と言う人が多いが、私は古くさいので、「勉強は、世のため、人のためにするもの」と思っている。

 中野雅至氏のライブドアニュースのインタビュー記事、まったく同感であった。

 いわく、「学歴と資格や所得を政府が結びつけようと努力するのであれば、公教育が復活して、格差の是正につながるような気がします。」

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図書館に競争原理がなじまない理由

 図書館が「独占」できる業態かどうかというのは難しい問題である。何を独占というのか、そもそも難しい。

 そこで、図書館が競争できるものかという話をする。

 もちろん、ある部分では、サービスの質など競争できる。

 しかし、図書館の場合、利用者がもっともメリットを感じるのは、資料が豊富であるとか、また、レファレンスで役に立つ回答が得られるかということである。

 これらは、十分、競争できることではないかと、普通、皆さんは思うだろう。

 「競争原理」に対して、「協力原理」という言葉があるのかどうか知らないが、公立図書館の場合、実は、自治体を越えて協力して業務を行っている。

 年間に出版される本を1点ずつすべて買うと2005年の実績では、1億7千万円くらいかかる。これは、まんがも雑誌も学習参考書なども除いた、いわゆる普通の本だけでこれくらいになるということである。

 とても、小さな自治体では無理である。最初から、勝負がついている。また、小さな自治体では、そもそも職員数自体が少なく、レファレンスも安定的にこたえられるというわけではない。

 しかし、日本の公立図書館は、よほど遅れているところを除いては、区市町村立図書館に対しては、都道府県立図書館が「協力貸出」を行い、また、区市町村同士でも「相互貸借」を行っている(遅れているところは、十分行われていないのが実態だが)。

 この「図書館協力」(library cooperation)というのは、れっきとした図書館学の用語であり、図書館協力論という研究分野もある。

 図書館は、1つの建物、1つの自治体の図書館でもってして「図書館」なのではなく、全体のシステムとして「図書館」なのである。おおげさな事を言えば、世界中の図書館で1つの図書館システムなのである。実際、公共図書館ではほとんど行われていないに近いものの(やろうと思えば、本当は可能なはずである)、大学図書館では外国から文献を借りることもある。

 この図書館協力を進めるには、少なくとも、変な意味での競争があると、かえって障害になる。鉄道会社によってカードが違ってめんどうくさかったりするのと同じである。もっとも、私は、民間会社だと協力が大変だとまでは言わない。実際、鉄道会社のカードなども、徐々にではあるが共通化されてきている。

 しかし、図書館のように公立でやっている同士では、協力を進めるのははるかに簡単である。共通の土台があるからである。

 これは、公営であることの大きなメリットであると思う。

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本質追求本部さんにこたえる1

 なんか、いつの間にか、図書館民営化論議が行われているようだ。
 コメントをいただいた本質追求本部さんのものは、私とは意見は違うものの、非常に論理的できちんとしたものだ。
 私も、標題とは違って「ほどよく」ないエキセントリックな書き方をしてしまったが、プリオンさんへの反論はちょっと、また、後にすることにして、本質追求本部さんがお書きになったことについて真摯におこたえしてみたい。
 立場は違っても、こういうきちんとしたことを言ってくれる人がいるのはありがたい。こちらも本質的なことが言える。
 しかし、世の中3連休らしいが、私は土曜も日曜も祝日も仕事であるので、閑が今ないので、ゆっくりとこたえさせていただく。
 ただ、最初にお断りしておきたいのは、私は保身のために論理を展開しているわけではない。必要性がない職まで存続させろなどというつもりはない。現在の「司書」というものには、いろいろ問題も課題もあろう。しかし、やはり外国の状況なども見ると、古くさい、もはや要らなくなる職業ということでもない新たなあり方が求められている。これについては、また詳しく述べる。
 それから、公共経済学的な観点については、私も以前から考えた。それから、NPMについても本を読んだりしたが、これは、便益分析などを否定しすぎなところもあり、むしろ、かえって恣意的な感を抱いている。その他、ABCだとか行政評価の問題とかも考えねばならないが、実は、図書館の世界でもISOでパフォーマンス指標などが存在する。しかし、日本はレベルが低すぎて、指標となっている項目のようなものがあるのかどうかすら疑わしい。そういう意味で、確かに価値観の問題もある。
 最後に、もっとも大切なのだが、経済的な観点だけでなく、「自治」の問題の要素が実は非常に大きいのである。この点について、日本の政治家でよく理解しているのは、鳥取県知事の片山氏である。
 とりあえず。

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2007年1月 7日 (日)

素晴らしい民営図書館

 民営化とは、公営のものを民営にすることを普通言う。
 公立図書館については、私はこれははっきり反対である。

 しかし、民営図書館を価値がないと思っているわけではない。はじめから民営の図書館で素晴らしい図書館はいくつもある。
 まず、いわゆる「公共図書館」というよりも、「専門図書館」である、多くの私立の図書館だ。これらは宗教関係の団体だったり、企業だったりする。ただ、残念なのは、企業の場合、安定的に継続することが難しい場合があることだ。

 それから、一般の市民がやっている図書館というか図書室もある。これは本当に頭が下がるような苦労をされている。

 あと、非常に有名なのだが、大宅壮一文庫がある。これは、ジャーナリストの大宅氏のコレクションから出発しているが、まともなマスコミ人なら皆、お世話になっているだろう。私が非常に印象に残っているのは、ここに電話したときに、あちらのスタッフの方が、本来はこういうことは公でやるべきことだと言われたことだ。本当に私もそう思う。それだけ、民間の資金だけで、ああいう事業をするのは大変なのだ。

 今はなくなってしまったが、大橋図書館という民営図書館が戦前存在した。今、同名の図書館もあるが、それは地域の名前で関係ない。この民営の方の図書館は、出版社の博文館が経営しており、現在の公共図書館では一般的に行われている予約(リクエスト)や、現在の公共図書館でも十分でないレファレンスのようなサービスを行っており、大変、注目に値する。

 詳しいことは、図書館の歴史の本にあたっていただければ、書いてある。ウェブサイトにはあまり詳しい情報はないと思うので、図書館関係の図書や雑誌を検索して見てほしい。絶版の本も多いだろうが、それこそ図書館を利用すれば入手できると思う。

 最近、イトーヨーカドーの図書館もなくなってしまったそうだ。以前から、注目していたのだが、自分の住んでいる地域にはないもので、一度、見よう見ようと思っているうちに機会を逸してしまった。いい取り組みだと思っていたので、残念だが、会社にも会社の事情があるのだろう。

 やっぱり、民営の図書館の最大の難点は、いつまで続くかという点である。他の事業ならば、必要な期間、やっていればいいというところがあるが、図書館の場合、もともとコレクションを構築するという大きな機能があるので、継続性や安定性、とくに財源面と人事面でのそれは、極めて重要である。一般的には、人事異動は良しとされるが、図書館の場合、本当に適性と能力のある人であれば、長く居れば居るほど、コレクションに精通するので、最終的には生き字引のような存在になる。本というのは、一種、人格を持った存在なので、何十万、何百万冊もある図書というのは、何十万、何百万という人を相手にしているようなところがある。決して、狭い世界ではないのである。

 しかし、民営の図書館の最大の魅力は、公立図書館のように、公共性だとか公平性などにこだわらなくてもいいところである。民間でも公共的なものや公平なものを実現できないわけではないが、むしろ、民間の図書館はそうでないところにこそ魅力がある。

 ステータスを強調して、思いっ切りおしゃれに作って、そういうステータスを感じさせるコレクションしか作らない図書館。とにかくベストセラーばかり揃える貸本屋。まんがだらけで、夜、寝ることもできるまんが喫茶。また、特定の宗教の本を山のように持つ図書館。こういうのは民間だからこそできることである。

 かつて、ある人に、エロ本やエロビデオばかり集めた図書館をつくるべきだと言われたことがある。総ての資料を収集しようと思えばそうなのだが、納税者の大方の賛同を得るのは難しいだろう。国会図書館のように、全点収集が基本で、未来の人々に向けても、良いものも悪いものも遺産を残さなければならないところは別として、普通の自治体の図書館として、そのようなことをするのは馬鹿げている。しかし、民営ならできる。いや、民営でそういうことをするところが現れないと、後世には残らないだろう。
 浮世絵のように、その時代にはエロ本でも、今となっては、文化遺産になるものもあるのは事実である。

 私としては、民間活力というのは、本質的に、こういう「できる限りの自由さ」にあると思う。ただし、財源を確保するのが大変だし、それを、会費や利用料等に求めるのであれば、市場原理が働き、それにそぐわないものは無理ということになる。
 かたや、公営の図書館の場合、納税者の大方の了解がとてもとれないものをたくさん買ったり、極端なサービスをすることは難しい。だから、昔は、まんがなどは置きにくかった。今は、団塊の世代以下では、まんがはむしろ好きな人の方が多いので、公立図書館で置いても歓迎はされても非難されることはほとんど皆無である。新聞等のマスコミ報道でも、図書館でまんがを置くことについて批判しているものは見たことが私はない。
 一方で、ベストセラーを買いすぎだという批判は随所にある。ただ、これは非常に頭を抱える問題で、その一方で、もっと図書館からベストセラーを借りたがる人もたくさんいる。こういう時には、公平性の原理によって対処していくしかないので、ほどほどになってしまい、これが、ベストセラーを図書館に置いてほしい人にもほしくない人にも消化不良の感を起こす。社会の状況がこういう場合には、その両方の極端を実現するには、民営(ただし、税金が投入されていない、完全に独立しているもの)の方ができる可能性はある。

 私は、民営図書館に反対なのではない。公立図書館を民営「化」することに反対なのである。別な言い方をすると、民営図書館・私立図書館はできるだけ自由に作られるようにした方がいいが、一方で、公共性と公平性を実現する公立図書館というチャネルは一定、確保しておかなければならないということなのである。

 この説明は、大変、長くなるので、今後、少しずつ、記事を作成していきたい。

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2007年1月 6日 (土)

プリオンさんへの再反論1 民営化の意義

 プリオンさんは、次のように言う。

「民営化しても税金がつかわれるようでは意味がない。予算削減をしやすくするためということなら有意義だが。」

 実は、私はこの前半には賛成なのである。費用の一部が民間企業の利益となりながら、税金を投入するということに疑問を感じるのである。「民営化」ではなく、民間が図書館をやることは一切、禁止されていないし規制もないのだから、利用料金を取ってでも、民間企業が自分たちで事業として経営すればよいのだ。そうすれば、民間企業が馬鹿な役所にああだこうだ指図されずに自由にやれるし、税金の不透明な使途が発生する余地もなく、市場原理に従ってサービスを行える。実際に、六本木ヒルズの図書館などはそうなのだから。
 後半が問題なのである。事実、いわゆる民間委託や民営化(指定管理者の民間団体や企業による運営)になった方が、予算は減る。なぜなら、そもそも、その範囲でやるというところを指定するし、また、競争入札なら安いところに行くのは当然だからだ。
 というよりも、もともと予算を少なくすることが民間委託や民営化の至上目的とされているのである。サービスの充実や専門性の向上などは本当は二の次である。あるいは、もともとサービス水準が低すぎるため、相対的にサービスが上がったかのように見えるということである。
 よくサービスの向上として夜間開館時間の延長や祝日開館があげられるが、そんなことは、体制さえ整えれば公営でもできるし、現にしているところも少なくない。
 すぐに、民間委託や民営化を「役所の側が持ち出す」のは、実は、役所側、公務員側、ときには組合側の怠慢や野蛮があるのだ。きつい仕事や勤務条件が厳しいのはいやだという、そういう根性、それから、役所当局側は、図書館なんぞに人員や予算を配分したくないという低い文化度、そういうものがあるからである。
 民間委託だの民営化だのを持ち出す前に、同じ人間がやれているのだから、公務員そのものが自身の効率化を追求すべきだ。民間の人に「公務員は非効率だ」と指摘されるのならまだしも、公務員自体が役所の報告書として、「公務員だと非効率なので、民間委託等を推進する」などと書いて、実際に、民間委託してみれば、役所の他部門に異動してしまったり、異動しなくても、仕事はみんな委託スタッフにやらせて、自分はラクをしているなどという現状が嘆かわしいのだ。もしかして、プリオンさんはこういう人か? 役人の人件費が高すぎるからだという人もいるが、それよりも、その高い人件費で、こういう無駄な報告書を書くのに多大な時間を使っていたり、また、タウンミーティングのやらせシナリオをつくっていたりするから、無駄が多いのだ。役所の無駄の本質はほとんどそういうところにある。だから、「○○改革」などという言葉遊びが流行るほど、こういう無駄は増える。というより、もっと悲惨なのは、無駄と知りつつ命令なので仕方なくやり、それで午前4時などという中央省庁の役人がいるということである。東大などを出たのに、レベルの低いことやらされて可哀想と思う。
 一方の委託スタッフのような格差の底にいる人々も悲惨である。図書館の職員になりたくて、自腹で司書の資格を(試験で取れるものではないので、相当高額かかる)取ったり、様々な学習会や研修にこれも自腹で参加している(ただし、こちらはそれほど高額ではないが、中身のあるものは高額なものもある)のに、結局、もしかすると、大都市及びその周辺のコンビニのパートより安いかもしれない時給800円前後、しかも何年やっても昇給もなしという状態でやっている。委託スタッフの場合、スキルもモラールも高い人の方が、同じスタッフのあまりのレベルの低さに嫌気がさしやめてしまう、または、かえって会社の目障りになりクビになるなどということもある。
 もちろん、委託を受ける企業でも良心的なところは、そんなにひどくない。しかし、あくまで、正社員ではなく契約社員だのパートでやっている人がほとんどである。チーフでさえそうである。さらに、そういう良心的な企業は、どうしても委託費が高くなるので、ただひたすら金を減らすことしか考えていない多数の自治体では、安い、本当に口入れ屋のような業者に委託しているのである。
 私はここに一番、怒りを感じている。
 儲けているのは、当のスタッフでもなく、ただ、人間を左から右にやっているだけの口入れ屋(人材派遣業だか何だかしらないが)なのである。
 そして、こういうところに、旧ゼネコン、悪徳商社、行政に癒着しているシンクタンクの連中がいかに多いことか!! 税金はこういう連中の搾取システムを通じて垂れ流しなのである。皆さんは、ご存じないかもしれないが、役所の企画部などというのは、実はパープリンで、お金はらってシンクタンクの人に毎日、家庭教師をしてもらい、宿題をやってもらっているのである。プリオンさんはこういうところの人なのだろうか?
 皆さんに警告する。
 はっきり言って、現政権の現方針下で(方針を変えれば、政権のいかんに関わらずそうではないが)、日本では司書に未来はない。図書館にもそんなに未来はない。学力低下問題も本質的には解決しない。その兆候をプリオンさんに見る。一見、知的なところもあるように見えるが、公共図書館がなくてもかまわないというところに、限界が小さい知性であるか、あるいは、大学などにいて、公共図書館がなくても不自由しない人であることが見て取れる。
 私はすでに図書館の正規職員なってしまっているから、なんとか命脈を保っているが、公務員制度の改革とやらで、クビ(分限免職)になる日も来るかもしれない。ただ、それでも、今までは、正規の職員だったから貯金もある(これも国家が破産すれば意味ないが)。
 委託スタッフになったら、貯金などできない。図書館の委託スタッフをやれるのは、裕福な家の子弟だけだ。
 だから、有産階級でもない人は、司書になろうなどと思わない方がいい。
 知らない人がいるようだが、どんなに勤務成績が良くても、委託スタッフや非常勤職員が、それによって、正規の常勤公務員にはなれないのである。そして、司書の常勤専門職公務員の採用試験を行っている自治体は圧倒的に少なく、また、その数も1人とか2人とか非常に少なく、倍率が200倍だの300倍だのという調子なので、頭がいいだけでなく運もよくなきゃ、もう無理なのである。
 それでもなりたい人は、どうか夢は2つ以上持って欲しい。そうすれば、もうひとつの夢は実現できるかもしれない。手塚治虫さんが漫画家になりたい人に言った言葉と同じになってしまうが、仕方ないのだ。
 とにかく、私は、こういう意欲もあり実力もある若者差別の政策がどうしても我慢ならないのだ。他の分野についても言えるだろう。

 確かに、今の公務員は効率が悪い。しかし、それは、効率というものについて真剣に学習・研究していないからだ(図書館にはそういう資料が山のようにあるのに)。そして、自分たち自身の効率を上げることを放棄して、安易に民間委託などを言いすぎる。民間委託の場合、安い不安定労働者によって支えられるので、人件費が圧縮され、その分では「効率」がよくなるのは当然なのである。しかし、その支える人々は、どんなに素晴らしい人でも捨てられるのである。
 さらに言えば、その民間企業でさえ、人件費以外の面では、たいして効率は良くない。仕事そのものの革新はほとんどない。

 もっとも悪徳なのは、NPOを標榜しながら、実際には、最低賃金法以下の「賃金」で図書館のスタッフを調達しているところだ。群馬県の太田市などである。もちろん、建て前は、ボランティアだから、「賃金」ではないので、具体的な問題にはされていない。なんでも1時間500円くらいしかもらっていないようだ。ところが、市役所自体で、これが「雇用」の創出になっているかのように言っている人がいるらしい。これでは、まるでやくざではないか。これが私の思い込みや脳内妄想、勘違いであることを望む。

 勝手に「聖域」扱いされている行政・公共サービス分野は、これからやくざまがいの企業への第2の公共事業となるだろう。結局、汚い公共事業は根絶されていないのだ。まともな企業の方なら知っているはずだ。もはや、日本は盗賊に占領されつつある。ロシアのことをああだこうだ言えなくなる日も近いだろう。

 とりあえず、再反論の1。


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2007年1月 5日 (金)

2007年のテーマ

 図書館の公共性について、哲学的に検討したり、経済学的に検討したりすることもできる。しかし、私は、どうも哲学に結局、言葉の遊びのようなものを感じ、また、経済学にご都合主義的なものを感じているので、歴史的に検討してみたい。
 図書館の、いわゆる「民営化」が最近言われるわけだが、図書館は、もともと、「公共」のものとは言えなかった。王権によるもの、貴族によるもの、資産家によるもの、学者によるものであった。それが「公開」されることはあった。「民営」というより「私営」の図書館はこうして始まった。そして、そこには、やはり限界があり、「公共」の「市民」の図書館が誕生するのである。この「市民」という概念についても、いろいろと考えなければならないところがあるが、いずれにしろ、「自治」と深い結びつきで公共図書館は誕生した。従って、普通、「公共図書館」という場合、国立図書館などではなく、自治体の図書館のことになるのである。
 「公共」の担い手は、必ずしも役所ではない、という言い方は確かに正しい。しかし、自治体でないというのはどうだろうか? 「自治体」とは必ずしも役所のことばかりを指すのではない。地方自治には団体自治とともに住民自治が存在するのである。
 いわゆる役所以外の「公」が存在することを忘れてはならない。
 本当のところ、「公」と「民」とは対立概念ではない。「公」の対立概念は「私」であり、「民」の対立概念は「官」である。
 しかし、こういうこと自体、私の嫌いな言葉遊びになりそうなので、迂遠だが、長い文字や書物や読書や図書館の歴史を通じて、図書館の公共性をあぶり出してみたい。
 2007年はこのテーマを主にブログを書く。

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