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2006年12月29日 (金)

アレクサンドリアの図書館

 プリオンさんは、アレクサンドリアの図書館がローマに火をかけられて焼失したことを書いているが、実際は、クレオパトラ7世のときの火事で多くの書物が焼けたにしても、図書館の組織自体は残っている。その後、衰退していき、いつごろなくなったのかははっきりとはわかっていないらしい。コレクションからローマが持って行ってしまったものも多いだろう。
 私が雲散霧消と書いたのはそういう意味だが、ローマ自体も結構立派な図書館を持っていた。ローマの公衆浴場の施設として図書館が併設されていることも結構あった。これは、一種の公共図書館の走りだろう。
 だから、ローマが図書館を大事にしていなかったわけでもなく、私の言いすぎかもしれない。
 ところで、ムバラク大統領が進めた新アレクサンドリア図書館プロジェクトは、先進国からかなり金を集めており、ヨーロッパの貴族なども金を出していると聞く。日本も実は、相当な額を出している。それはそれでいいことかもしれないが、自国の図書館にももっと金を配分してほしい。

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図書館の公共性批判への反論

番号をつけた直後の文はプリオンさんの引用です。

1 知的労働が嫌い・苦手な人は低所得になりやすいので、読書をする比率は低所得より高所得が多くても不自然ではない。とすると図書館は所得再配分どころか逆に広げている可能性さえある。

 これは、有名な貧困の悪循環の理論みたいなものだが、この悪循環を絶つために、公教育の必要性が言われるわけである。知的労働が嫌い・苦手になる前に、つまり、幼児・児童のときからの読書への導入に公共図書館は大変力を入れている。また、公共図書館の場合、読書が苦手な人でも読みやすいけど役に立つ本(図解なんとかシリーズとか、猿でもわかるなんとかとか)はとくに気をつけて選定している。

2 もし貧乏人が本を買えないとか進学できないというのを懸念するなら、奨学金などの形で現金を与えた方がいいだろう。

 これは貧乏人の悪い習性をご存知無い方の言い方。貧乏人は現金をあげると、酒かギャンブル、ゲームなどに使ってしまう。

3 図書館にほしい本が置いてないとか書籍よりネットにほしい情報がある場合も同様の問題が起こる。逆に役に立たない本にばかり税金をつぎ込んでしまう可能性もある。貴重な森林資源・エネルギーの無駄である。

 図書館にほしい本が置いてない場合には、予約(リクエスト)というシステムがある。市町村や特別区の図書館だったら、都道府県立図書館から借り受けたり、相互に資料の貸借をしている。

 役に立たない本ばかりに税金をつぎこんでいるきらいはあるかもしれない。この点については有効な評価システムの確立が必要だろう。しかし、これは実に印象的な言い方で、客観性はない。あべこべに、民営化した場合、役に立つ本に費用を集中して投入できるわけではない。はっきり言って、役にも立たないベストセラーばかり予約が多いから。たくさん買っているようでも、公共図書館は、これらの購入はかなりセーブしている(だから、なかなか順番がまわってこない)。

 資源の無駄のことを言うんだったら、みんなでひとつの本を分け合って読んでいる図書館の方が無駄はない。それに、現在は、リサイクルされた紙がかなり使われている。

4 図書館は出版された本の全種を買うわけではなく、どれを買うかは図書館の中の人の裁量だが、役に立つもの公共性の高いものを選択できているというのはどうやって判断しているんだろうか?

 通常は選定(収集)基準や選定(収集)方針を持っている。これらは当然に公開されるべきものである。

5 借りる人がおらず、本屋では売れないようなものを図書館が購入する癒着・利益誘導まがいの事はないんだろうか?

 これは、あべこべに民間委託された場合の方が危険がある。なぜなら、受託している会社がまさに、本の取次を行っていたり、本の販売も行っていたりするところがあるからだ。

6 さらに図書館が無料で貸し出せば、本が売れにくくなり、著作者や本屋の収入が減るという民業圧迫が起こる。結果として本を書こうとする人売ろうとする人が減り、科学技術分野へもマイナスの寄与となる。これでは有効な投資どころか有害な投資である。

 民業圧迫するほど、図書館に資料費はない。2005年の実績で言えば、まんがや学習参考書などを除いた図書を1タイトル1冊ずつ全部買えば1億7千万円ほどかかる。しかし、日本の公立図書館の半分くらいは年間の資料費が1千万円に満たない。そして4分の1は500万円にも満たない。
 それから、現在、日本の公立図書館は2千あまりだが、出版する方から言えば、1000部とりあえず売れれば、儲けが出て事業は成り立つ。出版社はほりえもんなどと違って、どこまでも金もうけしようという意図で事業をしているわけではないので、むしろ、儲けが出て、なおかつ、文化の普及に貢献できることを望んでいるので、あべこべに図書館がたくさんできて買い支えてくれる方が助かるのが実情。
 それから、著作者の権利について言えば、確かに、一部の物書きが騒いでいたが、地道なルポルタージュなどを書いているフリーライターなどは図書館のヘビーユーザーである。公立図書館のように無料で大量の資料が利用できるところがなくなると、これらの人は大変困る(大学関係者でもないから、大学図書館も簡単に利用できない)。

7 図書館の民営が良いか公営が良いか以前に存在そのものがよくないんじゃなかろうか。
 図書館より現金ばら撒き福祉のほうがはるかにマシだろう。

 図書館の存在そのものがよくないとは浅はかすぎて返す言葉もないが、こういう人はウィキペディアと電子ジャーナルで何でも調べることができると思っているのだろうか?
 現金ばら捲き福祉が悪いのは、だいたい福祉にお世話になる人の性として、ろくなものに使わないからである。
 それに、最低限の教育をあらゆる形でしておけば、福祉のお世話になる人を減らすことができる。要介護になってしまう可能性の高い脳卒中などは、生活習慣や食生活の改善でかなり予防できる。このような本は公立図書館で大量に用意している。公立図書館としても、なる前からそういう本を読むようにプロモートすることが必要だろう。

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2006年12月28日 (木)

図書館の年末年始休館と愛国心

 図書館が年末年始休館していることに腹を立てる人がいるけど、愛国心があるなら、図書館どころか、年末年始、とくに正月は絶対休まれたら困るところ以外はみんな休めと言いたい。
 もっとも、私は、図書館も年末年始やれというのなら、体制が整うならかまわないと思う。
 ただ、年末年始というのは、次のようなことをするので重要なのだ。

1 正月を美しい環境で迎えるため、大掃除をする。
→ 掃除と同時に、いろいろな書類や資料や手紙なども整理し、それとともに、いろいろなことを思い出し、いろいろなことを考える。
2 離れて暮らしている家族も集まる。
→ 家族の崩壊だなんだって言うが、盆暮れ正月、ゴールデンウィークに夏休み、その他いろいろな行事等を活用すれば、家族の絆を深める機会はたくさんあるのである。そもそも、伝統行事とか祭礼というのはそういう意味があるのである。法事にしたってそうで、死んじゃった人を、いまさらどうこうできないが、しかし、亡くなった方でも、生きている我々を結びつけるのに大いに役立つということである。
3 お年玉を子供にあげる。
→ 鉛筆も買えない貧乏なんてわざとらしい新聞記事があったが、お年玉を貰えば、鉛筆1年分くらいは十分買えるってもんだ。

 こういう伝統行事や祭礼などを破壊するほど、働かせすぎる日本の企業社会は、私ははっきり悪だと言いたい。企業社会に本当の愛国心があるんだったら、こういうことにこそ留意してもらいたい。

 年賀状だって、一通一通書くべきだと思う。相手は一人一人違うのだから。また、正月くらいおせち料理でいい。その方が健康的だ。

 もっと言えば、何にもないのに酒呑んだり、お菓子を食べたりする今の習慣は改めた方がいい。昔みたいに、何かの節目とか、来客があったときとか、そういうのに限定した方がいいと思う。

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2006年12月26日 (火)

国立図書館

 ひとつ前の記事で、ビブリオテーク・フランセーズと書いてしまったが、正しくは、ビブリオテーク・ナショナールです。
 もっとも、最近は、区別をつけるためか、ビブリオテーク・ナショナール・ドゥ・フランス(略称BNF)と言っているようだ。

 そういえば、英国図書館も、以前は、大英図書館なんて言う人も結構いた。もともとは大英博物館附属図書館だったからだろう。

 大英帝国という言葉も、考えてみれば不思議な言葉だ。グレート・ブリテンは大ブリテン島のことだから、大と英がなんで結びつくのかな?

 まあ、英国図書館もBNFもいわゆる国立図書館だが、日本はちょっと違う。国立国会図書館であって、立法府に属する図書館である。これはアメリカの議会図書館
(LC)と同じパターンである。戦後、そうなったわけである(以前は、帝国図書館)。はっきり言って、アメリカの影響である。アメリカ的民主主義と図書館は関係が非常に深いのである。

 デンマークなんかは、今でも王立図書館である。私がこの図書館に行ったとき、本当にサンタクロースみたいなおじさんがいて、今でも、記憶に残っている。

 国立図書館のあり方というのは、これはこれで、1冊の本が書けてしまう。

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ニューヨークの図書館

 図書館民営化の話を書いたら、亡者がああだこうだ言っている。

 ニューヨーク図書館システム(略称NYPL)の話をすぐ持ち出す人がいる。確かにここの図書館はいわゆる公立ではない。NPOに近いと私も思うが、そう言ったら、NPOではないと大学の先生から批判されたことがある。ここらへんはNPOの定義にもよるから、まあ置いておくにしても、ニューヨークの図書館は極めて特異な図書館であることを忘れてはならない。
 あそこは、覚醒した市民が極めて早い段階から図書館を自らつくったので、公立ではないのである。要するに、世界で、近代的公立図書館が誕生・普及する前段階からある、伝統ある図書館なのである。
 そんなところと「民営化」の話をごっちゃにしたって始まらない。そもそも、民営「化」した図書館ではないのである。

 アメリカと図書館の関係は深い。そもそも、建国理念からして関わっている。フランクリンが中心人物である。フランクリンの図書館のクラブ、そして、フィラデルフィア図書館会社という図書館の濫觴から、やがて、公立図書館が誕生するのである。

 公立図書館は王立図書館じゃない。民間のものが「公立公営化」したのである。「民営化」と逆のベクトルであるという歴史を認識しなければならない。

 ま、もっとも、ビブリオテーク・フランセーズは、革命で王のコレクションが国民のものになったわけだが、それでも「国立」である。

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2006年12月25日 (月)

情報社会をより良く生きるには

 『人間会議』という雑誌の2006年冬号のタイトルである。この雑誌名は、なんか変な新興宗教臭い名前だが、そういうものではなく、宣伝会議が発行している質の高い雑誌である。
 今号の表紙の絵の木原千春氏という画家も面白い。
 内容で、面白いのは、エッセエで有名なモンテーニュについて書かれた記事だ。彼は、うるさい世間を嫌って、はやばや若隠居したものの、かえって、いろいろな思いが噴き出し、それを有名なあの本にしたとのことである。
 これは、「溢れる情報洪水」から逃れたいとかいう、ステレオ・タイプな物言いに対するアンチ・テーゼになっていて面白い。
 また、整理力の記事で、図書館なんかについてはまったく触れられていないものの、書くことによって思いが形成される(整理される)というのは実に同感だ。
 してみると、書くこともなく整理する図書館とは一体何なのか?

 残念なのは、こういうテーマの雑誌なのに図書館に関する記事がないことだ。この業界の人にそういう発想がなかったのか、それとも、書き手を見つけられなかったのか。

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2006年12月23日 (土)

プリオンの面白い指摘

 図書館の民営化を批判した記事へトラックバックしたプリオンとやら言う人が、そんなに日本全国、鉄道があったらコスト負担できないと書いているが、今のようにモータリゼーションが進んでいない時代には、日本全国に多くの鉄道があって、採算が取れていた。
 あの夕張も、夕張鉄道なんていうのがあって、急行まで走っていた時があった。九州北部の炭鉱地帯など、鉄道が網の目のように走っていた。
 東京も都電が網の目のように走っており、もともとは軌道敷内自動車乗り入れ禁止だったからスムースに動き、路面電車だから遅いということでは必ずしもなかった。
 フランスの地方都市とかロサンゼルスが軌道を復活したのは有名な話だが、政府の新首都の構想でもいつの間にか軌道が入っている。国民からの意見を反映してのようだ。北欧に行ったときもエーデボリなどで路面電車に乗ったが、路面電車のある町は、意外と賑やかである。自動車よりも道路上で優先されていて、案外、速く進むことができるわりに、停車する間隔も短くて、それで、町に隙間なく商店があり賑わっているという感じになっている。長崎なんかも人口のわりには賑やかな印象を受けた。ここは図書館は駄目なんだけどね。今度、やっと市立図書館ができることになっている。

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2006年12月22日 (金)

NEETの気持ちもわかる時

 最近、評価制度やら言うものが流行っているが、どうして、私の上司が私を評価できるのか不思議だ。
 私は図書館情報学も学んでいるし、司書資格も持っているが、上司にはそんな人はいない。それどころか、図書館関係の雑誌もほとんど読んでいない。ひどい人は新聞すら読んでいない。どうして、こんな人たちが係長だの課長だのになるか、前からとても不思議だった。
 しかし、まあ、とりあえずいないわけにもいかないというような存在だと思っていた。
 ところが、こんな馬鹿どもに評価されるとなると話は別だ。
 こんな馬鹿なのに給料、私より多く貰いやがってとは思っていたが、今度は、私の給料まで減らしにかかる。
 ふざけんじゃない。
 もちろん、図書館に必要なのは図書館情報学だけじゃないから、評価するポイントがないわけじゃないだろう。でも、日本語もまともにできない誤字脱字だらけ(というか、誤字脱字とそもそも認識していない)の人たちに評価されるなんて、許し難い。
 人事評価や仕事の評価は必要だが、評価できないヤツに評価させるのは絶対にやめていただきたい。

 こんなことをされると、NEETの気持ちもわかる時がある。
 どうせ、一所懸命やったって、どうにもならないんだよな〜という感じである。
 あの馬鹿どもに受けがいい犬みたいな人生をした方が得っていうことか。いやだいやだ。

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図書館の「民営化」という馬鹿馬鹿しさ

 公立図書館への委託や指定管理者制度の導入が流行っている。
 こういう民間信仰に基づく民間療法が流行っている。

 図書館というものは、もともと、誰がやってもよいもので、営利でやろうとそれも勝手だ。個人だろうと民間だろうとできる。それでお金もうけをしても悪くはない。もともと規制など存在しない。

 しかし、公立図書館、つまり、自治体が設置する図書館についてはサービスの対価をとってはならない(無料であること)が定められている。もっともこれは、金がかからないことを意味するわけではない。要するに税を中心としたものでまかなうことが述べられ、それは、受益者負担ではなく、サービス自体が公共財であり、所得の再分配機能を担うことを示している。なぜなら、図書館サービスは仮に利用しない人がいたり、また、利用度に差があったにしても、自分が利用しなかったことについても、自分にも公益がまわってくることがあるからである。平たく言えば、自分が読んでもとうてい、わからないような高度に科学的な本であっても、それを税金で購入し、そういうものを学習したいと言う人があまり高価なので自分で買いきれないなどと言う場合に、その人が図書館からそれを無料で借り、たくさん勉強した成果として、その科学の分野に寄与したり、また、それを応用した製品や商品などをつくったりして、社会に還元すれば、図書館サービスはただ消費されたのではなく、有効に投資されたこととなり、その本を読まなかった自分にも便益がめぐりめぐってくるということである。

 つまり、図書館が無料であるのは、ばらまき福祉ではなく、より大きな公益のためであり、図書館という存在が非常に公共性の高いものであるとの認識からなのである。

 それで、概念上、区別されうる公立図書館と公共図書館が一致した存在としての図書館が非常に大きな意義を持つのである。

 そういう「公立」「公共」の図書館をわざわざ「民営化」するというのは、その本質自体を殺すことになるので、自殺行為である。これは、公立公共図書館を潰すということと同義である。

 民営でやりたいなら、私立または企業体で、何も公共性など考えずに利益になるターゲットに絞って営業すればよい。

 公立公共図書館では、それではできないこと、また、それでは、公益として社会にフィードバックできないことを行うのである。

 国鉄民営化を思い出して欲しい。国鉄民営化などという前から、私鉄はあった。民間の事業で成り立つなら私鉄で行えばよいのである。国鉄の借金は結局、国民が払わされて、しかも、JRになってかなり廃線になった。結局、民営化じゃなくて、廃止なのである。これからも第3セクターになったところなど危ないだろうし、さらに廃線になるところも出てくると思う。

 鉄道を勝手に過去のものとしてしまったが、その選択は本当に正しかったのだろうか? 酒も飲めない、歳をとったり、体が不自由になれば容易に運転できず、また、自分が家族をのっけて運転する立場なら、多くの自分の時間や空間の自由が奪われる自動車が本当にそんなに便利か?

 図書館をなくして、すべてインターネットにすれば、それは本当に便利になるだろうか? そもそもそこまで便利なインターネットのネタはどうやってつくるんですか? ここまで図書館を愚弄した国はやがて滅びるだろう。アレクサンドリアの大図書館を雲散霧消させてしまった国が滅んでしまったように。

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2006年12月16日 (土)

教育基本法への弔辞

この国の民は

 自治と独立の意味を知らない

この国の民は

 真理と芸術の意味を知らない

この国の民は

 平和と自由の意味を知らない

この国の民は

 ちっぽけな勇気と仁義に自惚れる

  結局、人間が小さいのだ

願わくは、この国の民が

 山のように大きく、海のように広い

  大きな道に再び還らん事を

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2006年12月15日 (金)

図書館と司書の課題

 教育基本法が「改正」されてしまった。いんちきくさい「愛国心」くらいしか目立ったものはない。いや、むしろ、行政当局の教育への干渉が強まる内容となっており、はっきり言って改悪である。
 こんな無意味な儀式よりやるべきことは、いろいろある。

 公共図書館の場合、医療・健康情報や法令情報の収集・組織化・提供、ビジネス支援はもっとも求められるテーマだ。これらは、今まで、とても公共図書館の手に負えるようなものではないという認識だった。

 しかし、現在、手に負えないなどとは言っていられないのである。

 医療や健康について、一般の人に正確な情報があまり提供されていなかったために、インチキな情報や疑似ビジネスがはびこっている。超高齢化社会で、病気になる前に、一般人でも知っておくべきことがたくさんある。こういうことでの公共図書館の役割は大きい。また、病気になってしまっても、患者や家族も勉強しなければならない。そのための資料や情報も用意しなければならない。医師や医療スタッフ、介護スタッフしかできないこともあるが、本人や家族など普段まわりにいる人間しかできないこともある。

 法令情報ももはや、専門家だけのものではない。裁判員制度も始まろうとしている。

 「自己責任」社会では、情報が大きな意味を持つ。公共で情報・資料をきちんと提供できるシステムを構築しないでおいて、「自己責任」だけ強調するのは「無責任」である。

 この情報提供システムについて個別のものが検討されているようだが、本来は、公共図書館を充実させるべきである。なぜなら、医療の問題だからと言って、医療関係の資料・情報だけあればいいわけではない、また、法令に関することだって、法令や判例の解説だけがあればよいというものではない。情報を綜合的に活用する必要があるのである。だから、綜合図書館であり地域図書館である公共図書館の役割が大きいのである。

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2006年12月14日 (木)

読書のイメージ

 私は本を読んでいるとき、どんなに速く読んでいるときでも、なにかしら声のイメージがあるのだが、これは一般的なことなのだろうか?
 なんとなく声のイメージがあるため、音楽を聴きながら本を読むということがあまりできない。ぶつかりあってしまうのだ。
 また、逆に、音楽が何か話しているように感じることがある。
 音感のいい人が、人の話し声や鳥のさえずりまで、メロディーで聞こえるらしいが、私はその逆だ。
 本も読みなれてくると、本の方から勝手に喋ってくるという感じになる。
 以前、ある人が、本がどんどん読めるときは、文字が立ってくると言っていた。ああ、そういうイメージもあるのかと思うが、これは、私にはあまりない。ただ、文章全体が一つの文字みたいに見えてしまい、ぱっと入ってくることはある。でも、それでも不思議と声のイメージがあるのだ。

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メディア規制

 国民投票法案にメディア規制を盛り込もうとする動きがあるそうな。

 これはいただけないなあ。

 そういえば、民主党の日本国教育基本法(だったっけ?)案にも情報規制の項目が唐突にあった。

 ウィニーの判決見ても、何かこう情報統制の流れが見える。(もっとも、ウィニー作者は、法的には私は問題ないと思うが、技術者倫理としてどうかと思う点はある。)

 だいたい、有害情報なんていう概念はないよ。情報に有害も無害もない。そんなに、こういうものを排除したいのなら、単純にエロ情報とか、暴力情報と言えばいいかもしれない。しかし、それとて、お相撲さんまでエロ情報になってしまうかもしれない。最近はちがうだろうが、まわしがTバックに見えて、以前、外国で相撲をやる場合はパンツみたいなものをはいている時があった。なんか余計変に見える。また、世界には裸族はいまだにいるから、こういう人は存在そのものがエロなんだろうか? わけのわからん話だ。
 暴力情報も、下手すりゃ、戦争報道がみんな該当しちゃったりするかもしれない。隠そうが隠すまいが、戦争とは残虐で暴力的である。そんなものに正当性を主張するのはやはりおかしい。戦争は国家の紛争解決手段なんていう考え方は間違っているのであって、国家間の紛争解決手段がなくなってしまったから戦争が勃発するのである。

 もっとも、どこかの小学校教師のように、見るに耐えないものをホームページにするのもいかれている。情報統制とかメディア規制とは別次元で、十分、取り締まりの対象になると思う。

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2006年12月11日 (月)

特別職に退職金は要らない

 なんだって、知事だの市長だのという特別職に退職金を払うのか理解できない。雇用されるのではなく、選挙で選ばれる人間に、なぜ、退職金なのだろうか?
 こういう人たちに退職金を払う必要があるというのならば、臨時職員や非常勤職員にも退職金を払うべきである。そうでないと、まったく均衡(バランス)が取れない。はやい話が不公平である。
 臨時職員や非常勤職員にも退職金を払わなければならないとなれば、クビを切ってしまえばいいということにはならないだろう。

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2006年12月 9日 (土)

自動車は街を破壊する

 自動車の都合を考えて街を設計すると、恐ろしく殺風景になる。

 郊外のニュータウンとか、つくば市とか豊田市とか典型である。

 こういうところには住みたくない。

 飲酒運転はいけない。だから、自動車でしか動けないところでは、おちおち酒など呑めない。睡眠不足で運転するのもいけない。だから、自動車でしか動けないところでは、朝まで語り明かすことなどできない。自動車を運転している時には、読書などできない。だから、自動車でしか動けないところでは、むしろ時間が無駄になる。自動車でしか動けないところでは、駐車場がないと非常に困る。だから、味のある小さなお店はなかなかつらい。自動車でしか動けないところでは、誰かが自動車に乗って行ってしまうと自分はそこにじっとしていなければならない。子どもや年寄りの場合は、何台も自動車があったとしてもそうなる。

 自動車は不便だ。

 そして、自動車ばかり優先すると、道と駐車場ばかり目立って、呑み屋も本屋も喫茶店も気の利いたものがなかなかできない、つまらない街になる。

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孤独は悪いことなのか

 読書は孤独である。しかし、読書は充実している。

 昨今のいじめ問題で感じることは、なぜ、そんなに孤独を恐れるのかということである。人間は生まれてくる時も死にゆく時も孤独である。見守る人はいるかもしれないが、やっぱり孤独なのである。

 孤独でも読書が充実しているのは、それが対話であるからだ。

 本はただの紙だし、パソコンはただの機械だが、文章というものは人間が書いている。一見、孤独でも、うわべだけの実際の会話よりはるかに深いものがある。

 本当の対話とは、むしろ、孤独が前提である。

 孤独によって、何かに依存したり、また、自己中心的になったりしなくてすむのである。

 現在の若者には孤独の力が足りない。

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2006年12月 8日 (金)

教育基本法改正案14日に成立か

 結局、14日に成立してしまう見込みらしい。

 また、変な法律ができてしまう。

 せめて、付帯決議で、国を愛する態度なるものが、国民と国家との間に特別な関係を想定するものではないこと、個人の自由を規制するものではないことを明確にしてほしいものだ。そうじゃないと、また、徴兵制だの兵役の義務だの言われかねない。

 しかし、国を愛する態度がまったく個人的なものにとどまるのなら、なぜ、法律に書くのか? そうじゃないものを想定しているに違いない。

 旗や歌程度なら、どうでもいい気もするが、その先が恐ろしい。強制代執行とかあるしね。

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2006年12月 1日 (金)

教育基本法改正案の矛盾

 教育基本法改正案では、「国を愛する態度」と「郷土を愛する態度」が同時に書かれている。しかし、これは、対立する場合もある。
 例えば、基地の問題。国防上の都合でつくられるものが、郷土の自然環境や文化や経済・社会を損なう場合がある。はっきり言って、北海道や沖縄はすでにそうかもしれない。
 あるいは、原子力発電所や再処理工場などの場合。「公共の精神」「国を愛する態度」「郷土を愛する態度」は相互に対立するかもしれない。

 地域と国というものは、常に対立する要素をはらんでいるのだ。また、地域における公共と国における公共というのは摩擦を起こすこともあるのだ。

 「公共の精神」と簡単に言うが、「公共」というものは、実は単一なものではない。

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