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2006年11月30日 (木)

図書館の電子化の課題

 もう、図書館なんか電子化しちゃえばいいという意見がある。
 実は、私は基本的には賛成なのである。
 しかし、課題が多すぎる。

 まず、第一に文字。

 この程度のものを書いているのには問題がないが、少し、古典などに首を突っ込むとお手上げだ。

 例えば、十牛図なんかに説明の文句がついているが、この中にもJISだのユニコードなどになさそうなものがある。

 千字文だって怪しい。千字文は子どもの学習用としても用いられたものである。もちろん、現代の当用漢字的視点とは違うけれども。

 こういうのをちゃんと書けるのは、TRONくらいだと思う。B−TRONの超漢字はVというのが出て、ウィンドウズに乗るようになったけど、ここらへんどうなっているのかな。

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2006年11月29日 (水)

日本での図書館のあり方の特徴

 日本での図書館のあり方の特徴として、良く言えば「遍在主義」的(偏在じゃない)、悪く言えば「附属物」的ということがあるんじゃないだろうか。
 いろいろな図書館すべてを通しての制度とかその他のシステムというのは実はない。
 大学は大学設置基準、小中高などの学校は学校図書館法、いわゆる公共図書館は図書館法、企業の図書館や情報センターは特段の法律があるというわけでもなし、国会は国立国会図書館法、政府各省には国会図書館の支部、さらに、公民館図書室、議会図書室、視聴覚ライブラリー、点字図書館(障害者への施策)、などなど。
 体系だってはいない。
 良く言えば、あらゆるところに図書館がある。しかし、実際は名前だけで機能していないところもある。悪く言えば、どの図書館も何かの附属物的扱いで、自ら意思決定ができるところが、実はほとんどない。
 いかにも、階層的な社会組織や制度に、図書館というものは馴染まないようだ。そこが図書館の悪いところでもあり、いいところでもある。

 世の中は、だんだん、いかにも階層的なものからネットワーク的なものに変わってきている。そうして見ると、実は、図書館はずっと未来的なはず。

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地方交通は危機的

 銚子電鉄の方は、濡れ煎餅が飛ぶように売れているようだが、鹿島鉄道も危ないとは知らなかった。百里基地の燃料輸送がなくなり、経営が苦しくなっているようだ。
 地方の私鉄には、工場などの貨物の需要があって成り立っていたものもあるが、最近、それが使われなくなっているようだ。

 鹿島鉄道は、引き受け手がなければ、来年にも廃止になってしまいそうだ。地元の高校生などが随分、応援している。確かに通学に使っている人はなくなると困るだろう。まあ、バスはあるのだろうが。

 前から、なぜ、地方の私鉄が、しかも同じ会社が、線路に沿ってバスを走らせたりするのかなあと疑問だった。これでは、鉄道に乗ってくれないではないか、と。

 しかし、最近は、そのバスの方も、随分と危機的なようだ。全部、マイカー前提となっている。こんなところにも、飲酒運転の根がありそうだ。年寄りは車を運転できないし、また、誰かが出かけていれば身動きが取れなくなってしまう。いちいちタクシーじゃ、金が持たないし。

 一日数回という少ない本数でも、通学や年寄りのためには意義は大きい。

 朝・昼・夕・夜とあるだけでも違う。通学、通院、買い物、呑み会に使える。夜は返ってくる方ね。そんなに遅くまで呑んでいてもしょうがないし。いっそのこと、電車や列車自体を居酒屋にしてしまってはどうか。

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2006年11月28日 (火)

お風呂で読める本

 お風呂で読める本というのを、フロンティアニセンという会社でつくっているそうだ。こりゃいい考えだ。私は、風呂で本は読まないけれど、図書館の利用者で、どうも風呂で読んで、本を駄目にしてくる人がいて、大変、困っていたのだ。もっとも、お風呂で読める本を図書館で買って、貸し出すというのは、とてもやりにくいなあ。自分で買っていただきたい。

 あと、銭湯で置くという方法もあるか? もっとも、これを風呂に持ち込まれて、中でのぼせて倒れられても困りもの。

 お風呂で読める本ではないが、ダイバー向けの魚の図鑑で濡れても大丈夫という本がある。ダイバーと言わず、海辺で読書する人には濡れても大丈夫な本がいい。銭湯には置けなくても、海水浴場やプールなら置けるか。

 ところで、考えてみると、パソコンやケータイなどは「光る本」みたいなものだ。暗いところでもよく見える。

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なにがチーム−6だよ

 チーム−6とか称して、なにやらやってる。クールビズ、ウォームビズとやらだ。
 正直言って、くだらねえと言ってやりたい。

 だいたい、温暖化のせいで、夏が激烈に暑くなっちゃったから、冷房を28度に「設定」なんかされたら、今の、気密な建物じゃ下手すりゃ30度近くて死にそうなんだよ〜。

 私なんか図書館員だから、夏、激烈に暑くてたまらんのである。いくら、クールビズと言ったって上半身裸にはなれないだろ、今の日本では(江戸時代いや昭和30年代くらいまでは結構平気だが)。

 それから、ウォームビズとか言っているのに、なんでこんなにどこもかしこも暖房効かすんだよ。おかしいじゃねえか。冬は以前よりずっと暖かくなっているのに。

 それから、だいたい、何で、自動車なんか乗るなって、はっきり言わないんだよ。なんだかんだ言って、地域交通は日本はまだ残っているぞ。それにだいたい、都会の人間が自動車に乗りすぎる。もう、都会は業務用・居住者以外自動車通行止めの道をもっとつくれっていうの。それから、自転車道と駐輪場を整備しろっていうの。
 鉄道貨物や水運ももっと復活しろっての。何でもかんでもそんなに速く届かなくたっていいの。

 あとは、夏休み・冬休みを増やせばいいだけ。オフィスが一番、エネルギー食っているんだから。

 超高層ビルなんて、窓も開かないし、空調に頼りきりで、一番、反エコだ。超高層ビルなんて禁止しろ。

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日本版愛国者法

 愛国心がそんなにお好きなら、いっそのこと日本版愛国者法だ。

1 和をもって尊しとなし、いじめや戦争をしてはならない。
2 学問や教育を重んじ、政府や自治体は、むやみに科学や教育の予算を減らしてはいけない。国民は勉強しなきゃいけない。
3 安全や健康を重視し、あやしい食品を作ったり売ったり、過度の残業をさせたりしてはいけない。医療や保健には、全力を尽くすべし。
4 搾取をしてはいけない。
5 美しい国を実現するために、景観や街並みを損なう都市開発は禁止する。また、自然環境を破壊する道路も禁止する。

 これじゃあ、非国民だらけだね。とくに大企業。

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日本大好き

 私は教育基本法に国を愛する態度なんていうのを盛り込むのは大反対だけど、日本は大好きである。
 理由は、何と言っても、食べ物がうまい。これは、多くの外国人も言っている。
 ただ、田舎なんかだとひどいところがあるな。あと、名古屋や関西ははずれがあまりないけど、東京だと、ときどきひどいはずれがある。
 日本に限らずアジアの食べ物はたいがいうまいけどね。

 ヨーロッパでも、イタリアやフランスならいいな。

 あとは、本が多い。つまり、出版が盛ん。これは日本の地場産業だ。世界中に日本語が読める人間を増やした方がよい。面白い本を読むために言葉を覚えるという人はいっぱいいる。最近は、まんがを読みたくて、日本語を勉強する外国人がいるようだ。
 ホームレスみたいなのがいないことと言うのは、以前なら言えたが、今はとても言えない。格差が少ないというのも、以前なら言えたが、今はとても言えない。教育水準が高いというのも、以前なら言えたが、今はとても言えない。マナーがいいというのも、以前なら言えたが、今はとても言えない。工業製品が壊れたりしないというのも、以前なら言えたが、今はとても言えない。安全というもの、以前なら言えたが、今はとても言えない。
 みんな、愛国心とやらを声高に言っている人がこうしてしまった。

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2006年11月27日 (月)

夕張市の図書館が廃止?

 タイトルのような話が出ているらしい。
 いくら、財政再建団体になったとは言え、図書館廃止とは一大事である。
 今までも、分館・分室が廃止とか、移転のため廃止という話は各地であった。

 しかし、自治体の図書館まるごと廃止というのは聞いたことがない。

 土日だけ開館だとか、そういう限定的なことさえできないのだろうか? それとも、現状でも利用が低調なんだろうか?

 図書館の利用が低調だとしたら、そんなだから、どうしようもない市長を選んでしまうんだなあと思う。

 電力会社もこういう場合には、電気代ただにしてもよいように思う。
 出版社もこういう場合には、新刊を寄贈してもよいように思う。
 それから、こういう時こそ、ボランティアの出番だと思うのだが、肝心なときにボランティアは役に立たないのか? いわゆる図書館スタッフだけでなく、コンピュータ・システムの提供・運用というようなこともある。

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昼ドラ

 昼ドラっていうのを、すごい久しぶりに見た。

 つまらなすぎる。

 出ている俳優は有名なのが一杯いるのに。

 もとの話がつまらないのか?

 演出が懲りすぎていて、つまらないという感じがする。でも、日常の泥沼に沈んでいる人にはこういう方がいいのだろうな。

 やっぱり、主婦っていうのはつまらんだろうな。

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2006年11月26日 (日)

電子化で図書館はなくなるのか

 タイトルのような心配をする図書館の人たちがいる。
 まあ、自分の仕事が危ないかもしれないから、わからないわけではない。
 しかし、私はこの手の心配をあまりしていない。

 この手の心配は古代からあったに違いない。

文字が発明(?)されたとき → 語り部が言霊が暴れ出すと恐怖を感じたかもしれない。

粘土板から巻き物などになったとき → 粘土板業者(?)と楔業者(?)と権力者が危機を感じたかもしれない。

印刷術が発明されたとき → 写本する修道僧で危機感を持った人がいたかどうか?? 結局、おそらく一番印刷されたのは聖書だろう。

電子化 → 印刷された本を右にやったり左にやったりすることしか頭にない人は確かに危機感を抱くだろう。しかし、中身はずっと古代以前から変わっちゃいないのである。

 要するに、私の言いたいことは、電子化なんていうのは、一種必然的な流れなので、それに適応して、図書館もどこかに位置を持てばいいだけの話ということです。

 本当は単純なんだ。こだわりすぎるとわからなくなる。

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2006年11月25日 (土)

愛国心と科学者

 科学者はまったくの愛国的態度から、殺人兵器を開発した。
 原爆だってそうである。

 まったくの杞憂であればよいが、教育基本法やそれに基づく法令・規則等が学問や科学のあり方まで拘束し、そこに愛国的態度を求めるようなことにならなければと思う。

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結局、教育基本法は改悪されてしまう

 結局、教育基本法は改悪されてしまう。

 改正推進派は、いじめ問題だの学力低下だのが、改正前の教育基本法で重視されている個性の尊重のせいだとしている。では、「改正」後、これらの問題が解決するだろうか。しっかり見てやりたい。結論を先に言ってしまうが、絶対に解決しない。個性を尊重しないでいじめがなくなったり、学力が向上することなど絶対にない。

 もっとも、いわゆる「いじめ」をする側というのは、個性を否定する人間だから、制度自体で個性を否定してしまえば、いじめもへったくれもなくなるだろう。いじめる側がいじめ問題を解決しようとしているわけだ。これは、いじめを「いじめではない」、「いじめられる側に問題がある」というようなものだ。いじめる側の犯罪性はちっとも問われない。

 それから、学力というものも、すぐれて個人的なものであって、個性なくしてありえない。学力というものを集団的なものとしてとらえる日本の知的貧困が我が国を破滅へと追いやるのである。

 「自分でものを考える力」なしに、絶対に学力は向上しない。今、日本の学力が低下したと言われるのは、仔細に見れば、自分でものを考える力の部分である。読解力はその中心である。自分でものを考える力のない人は、いくら本を読んだところで賢くならない。本を読むのが大事なのは、自分でものを考え、人と協力して行動するためなのであり、何かを暗記することではない。そういうことなら、サヴァン氏症候群の人の方がよほど得意である。学校はサヴァン氏症候群を広めようとしているのだろうか。

 「愛国心」などという思考停止は、学問にとってはむしろ害悪である。この思考停止によって、幾多の優秀な科学者が殺人兵器の開発に血道をあげてきたことか。

 今後は、教育基本法改悪後、いかに社会が劣化していくか記録して行きたい。

 もっとも、劣化していく社会を手をこまねいて見ているのも無責任なので、教育基本法改悪後、さらに、まともな教育基本法に改正するための案を考えたい。しかし、日本国憲法改悪が、次に迫っている。今の劣等国民だと平気で賛成してしまいそうで恐ろしい。戦争を実体験した人が減っていることや、昭和天皇が亡くなってだいぶ経ったことに乗じてやりたい放題だ! なぜ、日本の国民はここまで馬鹿なのだろうか。やっぱり、図書館だとか知的なものを軽視し、ちょい悪だのといったチンピラめいてよたった(かぶいた)三文文化が好きだからなのだろうか。最近、流行の自動車のデザインなどを見ていると強くそれを感じ、目を覆いたくなる。今の珍走団まがいの自動車のデザインは、まったく買う気も乗る気も起こさせない。今の自動車は程度の低い人たちのおもちゃという感じがする。

 こんな珍走団の愛国心など、やくざの仁義とたいして変わらない。

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2006年11月20日 (月)

銚子電鉄を守ろう!

 銚子電鉄が、お金がなくて困っているそうである。でも、これは社員がさぼっていたわけではない。ローカル私鉄で、鉄道の旅客だけではとても大変なところ、銚子名物の醤油を使った「ぬれ煎餅」を売って、随分、経営を助けていたのだ。
 しかし、前社長の使い込みにより、会社まで借金を負う羽目になり、法定の点検さえままならず、このままでは運行も危ぶまれるそうである。

 これは、全国の鉄ちゃんのみならず、馬鹿幹部に悩まされている人たちは救わねばなるまい。銚子電鉄のサイトに行けば、ぬれ煎餅の注文もできるようになっています。みんなで、ぬれ煎餅を食べよう。

 もちろん、銚子電鉄に乗りに行くっていうのでもいいよ。犬吠崎マリンパークのいるかは可愛いよ。それに、今は銚子市民センターで千葉県立美術館の移動展もやっています。

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2006年11月18日 (土)

克己復礼

 自立した個による公共というのは、つまり、古い言葉で言えば、克己復礼である。己を自分でコントロール(自律)し、社会全体の良い慣習や制度をつくりだしていくことである。

 克己復礼という言葉は、あくまで克己が先である。克己というのは、自分をコントロールすることであって、自分を抹殺することではない。

 自分のエゴをむき出しにするわけでもなく、しかし、自分というものをしっかり認識し、コントロールし、世界の中に自分をしっかり位置づけるとともに、世界とともにあるということである。いわば、十牛図みたいな話である。

 十牛図は、決して、自分を抹殺しない。自分と同様に大事な「他の」自分もたくさんあり、それが世界であり、「自分の」自分もまた世界の「大切な」一部なのであるという認識と、それに基づく実践なのである。

 こういう考えを持っていたら、いじめも自殺も存在しない。だからこそ、現行教育基本法の実践が、変てこな、いんちき「改正」より重要なのである。

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公共の精神と個の自立

 教育基本法改正論者は、個性の尊重が現行教育基本法で謳われているため、それが行き過ぎ、公共の精神が失われていると考えているらしい。

 しかし、私に言わせれば、これこそ、公共の精神を失った考えである。

 公共の精神とは、どこかから強制されるものではない。まさに、自立した個によって実現するものである。自立した個は、個々勝手な事をするのではなく、自分自身も大切にしながら、他の個も尊重し、お互いに協調して共存共栄を求めるのである。

 個を失った公共の精神などは、何も考えない愚昧な動物のための躾である。これは、人間を奴隷視する、昔の貴族のようなものの考え方である。

 公共の精神が、こんなくだらないものだったら、公共図書館で個々人に応じて本を提供するなんておかしなことになる。馬鹿な動物のようにみんな揃って同じ本を読ませることが公共図書館になってしまう。しかし、何万人・何十万人もいる利用者に同じ本を読ませるなどナンセンス極まる。同じ本ばかりそんなに揃っている図書館など、図書館とは言えない。作家たちが批判している、ベストセラーばかりざくざく揃えた図書館と大同小異である。

 つまり、こんなことを考えている人たちにとって、もともと図書館など必要ないのだ。文部科学省お墨付きの教科書だけやっていればいいと思っているのだろう。道理で、歴史の教科書がどうだの必修がどうだのにこだわるわけである。

 はっきり言っとくが、この複雑な世の中、学校の教科書だけ、必修科目だけでどうにかなるわけ絶対にない。その先は、必ず自分で勉強しなければならないのである。

 今の日本人は勉強に対する姿勢が甘すぎる。むしろ個をしっかり確立する、現行教育基本法の精神を実現するように努力してほしい。そのためには、社会教育、図書館の充実は必須である。

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教育基本法には「公共の精神」が盛り込まれていないのか

 教育基本法改正論者は、現行法(昭和22年のもの)では、公共の精神が盛り込まれていないと言っている。
 しかし、「公共の精神」とは何なのか? これは、よく考えないといけない。
 公共の精神とか公共性というものは、個人の尊重があってのものである。私は「公共図書館」の職員だから、「公共」概念についてはこだわりがある。
 現行教育基本法は個人の尊厳を重視している。そして、その上で、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」(第1条)としている。公共の精神とはまさにこのことだと思うのだが、違うのだろうか。一番最初の条文に盛り込まれているではないか。
 公共の精神とは、自律的に「良い社会」を形成しようという精神のことである。自治の精神と不可分である。独立自尊と言ってもいい。また、「修身斉家治国平天下」(「論語」や「大学」)でもいい。
 個人が自立し自由になり、自治の精神でもって、小さな社会からだんだんと大きな社会をお互いの協力によってまとめていき、世界平和を目指すということである。
 私は儒教が個を抹殺した思想だとは思っていない。朱子学はどうだか知らないが、『論語』などを読むと、むしろまったく逆に思える。本来、「修身」とは「人格の完成」という意味だと思う。個人が自由で自立・自律して、はじめて社会が成り立つのである。だから、個人の人格陶冶は極めて重要なのである。これが教育である。現行教育基本法の目的はこれそのものではないか。これを「公共の精神」と言わないなら、一体、何を言うのだろう。
 個を抹殺して、上の言うことを聞くなんていうのは、公共の精神ではない。また、多数決の暴力も公共の精神ではない。また、「やらせ」なんて、もっとも公共の精神から程遠く、私利私欲に基づく世論誘導・デマゴークそのものである。

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2006年11月17日 (金)

仏像

 東京国立博物館で行われている仏像展に行ってきた。

 こりゃあ、ギリシャ彫刻だなと思った。服の襞など細かい部分まで能く表現されている。もっとも、身体があらわになっている部分はやはりちょっと平板だ。

 今度、何処かで、ギリシャ彫刻と仏像を並べて展示する試みをしないだろうか。ぜひ見てみたい。

 ところで、この展覧会では、十一面観音が多かったが、もともとこれが多いのだろうか。それから、観音って女性かと思っていたが、そうでもないのか。胸が平板だった。

 日本のように仏像の多いところでは、どこかに自分の顔に似た仏像なり神像なりあるのだろうか。それとも、一定の図学に基づいてつくられているから、そうでもないのだろうか。


 しかし、館内、暖房効きすぎ。


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知価社会へ向けて

 高度情報社会という言葉がいつのまにか定着したけれど、まあ、このくだらないブログも含め、なんか、たいしたことない偽コミュニケーションがごしゃごしゃと増えただけというのが実情だ。
 古くさくても、図書館の方が、いまだにはるかに価値がある。

 ゆとり教育とやらは失敗した。しかし、綜合的な学習とか調べ学習というのは私は間違っていないと思う。いや、むしろ、これからの知価社会へ向けてはぜひ必要なのである。

 ただし、これには大きな条件がある。まず、公立図書館と学校図書館が整備され、公立図書館が学校図書館を支援できるだけの質と量を持っていること。専門職である司書がきちんと採用・配置されること。それから、今は充て職である司書教諭をやはり、専門で専任の学校図書館の職員とすること。そして、教員の養成過程で、図書館情報学をある程度入れることである。

 綜合的な学習や調べ学習がなぜ大事かというと、日本がこれからしなければならないのは、もう、追いつくことではなく、一番手を走る人にならなければならないからである。そこで必要なのは、構想力とか創造力である。そして、これらには、実は、地道な調査力とか実験力が必要なのだ。

 なによりポイントは、「新しいものをつくる」ということである。だから、いわゆる試験ができる人というタイプではない。試験の場合、たとえどんなに難しくても答えはある。すでに誰かが解決しているのである。暗記ものの場合、もっと意味がない。インターネット・サイトや図書館を使えば、いくらでもすぐ調べられるのである。そんなになんでもかんでも内部記憶にする必要はない。また、暗記ものばかり試験すると、変化が激しいものは陳腐になるだけである。意味がない。

 試験をするにしても、これからは、会場を図書館として、どの資料を使っても、また、友達と相談してもいいということにすればいい。そして、そういうのに相応しい問題を出せばよいのだ。これでもというより、これの方が本当の力は実は判明する。

 綜合的な学習で課題を出されて、自動販売機のようにガチャンと出てくる答えを期待されて、児童・生徒にたくさん質問されたが、綜合的な学習をしているのは、当人ではなく親、いや、私たち図書館職員だった。そういう意味では、私たちの訓練にはなったけど、当人たちには何にもなっていない。

 本当は、綜合的な学習など、答えは出なくていいのだ。過程が大事である。その過程を安易に他人に任せてしまっているのである。もう、深刻なほど、知的でない。考えるということをしない。学力の基礎は考える力である。当たり前だが。

 だけど、何もわかっていない人に考えろと言っても考えられない。問題−答えという連鎖がしみついている人には駄目なのだ。

 私がもし、教師なら、逆のことをやらせる。つまり、答えを先に与えておいて、問題なり課題なりをつくってくれということである。こっちの方がはるかに頭の力を試すことができる。また、答えはひとつでも問題は多様に設定できるから、それぞれの個性や独創性も見ることができる。答えがひとつの問題を出すというのは、その時点で画一化しているのだ。これからの知価社会では、画一化はむしろ有害である。その点、国民自体がもっと自覚しないといけない。

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2006年11月16日 (木)

教育基本法「改正」案衆議院通過

 これは多数決の暴力だ。野党の欠席も問題かもしれないが、与党の強引な姿勢も問題だ。タウンミーティングをやらせなしでやりなおしてからにしてほしかった。
 やらせ問題についての認識が軽すぎるのではないだろうか。
 やらせ問題についてちゃんと調査をした上で、関係者を適切に処分し、タウンミーティングは仕切り直すのが筋だろう。そうでないと、まともな気持ちで出席した人たち(賛成・反対問わず)に失礼だ。
 ここで、通さなかったら、通らないなどという代物だったら、なおさら、無理やり通さないでほしい。
 教育基本法「改正」問題については、国民の関心は低い。
 もっと、関心を持ってもらった上で、手続きを進めるべきである。
 国民も議員もなめている。こういう発想は、中身の問題以前に、民主主義として非常によくない。やらせ民主主義なら、それはデマゴークであり、ソクラテスやキリストを死刑にした人たちのような発想である。

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2006年11月15日 (水)

教育基本法「改正」では教育問題は解決しない、それより必要な施策を急げ

 いじめ問題が、なかなか解決しないのは、いじめる方に地元の有力者がかんでいるからである。親がゴミだから、子もゴミなのだろう。

 夜間中学とか通信制とか、古いようだが意義のあることをもっと見直すべきだ。子どもが身につけなければならないのは、虐待されることに耐えることでもないし、また、長いものには巻かれる犬根性を養成することでもないし、復讐心でもない。単純に学力である。学力を身につけられるように、いじめという犯罪から守らなければならない。

 学校という集団の中で解決するだのなんだの、甘い、甘い。偉いやつらがいじめる餓鬼の親なんだから、どこかに避難しなけりゃ解決しない。

 そうして、こういう偉いやつらが、教育基本法「改正」とやらにつるんでいるんだろ。「やらせ」どころじゃない、どす黒いものが、ほじくり返せば出てくるさ。

 国を愛する態度なんていう、やくざの仁義みたいなものは、所詮、苛め人間の屁理屈なのだ。俺たちの言うことを聞けということなんだろう。

 大道廃れて仁義あり。
 国乱れて忠臣あり。

 こんなものを決めるということ自体が、「道徳」が廃れていることの現れである。上の「道徳経」または「徳道経」すなわち「老子」の言葉が物語っている。

 愛国心なんていうのは、天下の大道から外れたやくざもんの義侠心なんだよ。

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2006年11月11日 (土)

情報を自律的にハンドリングできるということ

 前の記事がわかりにくかったので、ちょっと補足。

 子どももいずれ、情報を自律的にハンドリングできるようにならなければならない。だから、その訓練は必要である。図書館はその訓練に適切な場である。だから、図書館で、目録などのツールを使って、自分で調べものをしたり、絵本などを自分の感性を大事にして、自分の魂の声を自分自身がしっかり受信して見つけることが必要なのである。そして、司書に適切なアドバイスを求める行為によって、質問したり相談するということの訓練も必要なのである。

 一方、パソコンや携帯電話がそういう訓練に適していると思っている人がいるが、実際はそうでない。一定の訓練ができた人でないとパソコンや携帯電話は使いこなせない。だから、私は子どもに安易にこういうものを与えるのはあまり賛成でない。子どもにパソコンを与える場合は、それをどうやって使うかスキルとともに教えるべきで、とくに、インターネットなどは、検索方法や情報の評価の仕方なども教えるべきである。たくさんのサイトに書いてあるから正しいとは言えないのである。いいかげんなことをただコピーしている人がたくさんいるから。

 実は、こういう傾向は出版物でもあるのだが、それでも、出版物には思想や立場の違いはあれ、編集という行為を経ているので、まるで質が違う。だから、インターネットのサイトであっても編集されているものは、一定以上の質がある。むしろ、インターネットのメリットは編集によって、逆にそぎ落とされてしまっている価値のあるものを見つけることができるということである。しかし、この区別を知るには相当のリテラシーがなければならず、いわゆる「ちゅうぼう」には無理なのである。読書も満足にしていないヤツはインターネットなど猫に小判、豚に真珠ということなのだ。

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情報過剰社会?

 情報洪水とか情報過剰社会とか言われるが、私はそうは思っていない。情報は増えたが、ない情報は相変わらずない。ただ、くだらない情報が増えたのは事実だ。
 要は、情報を自分でハンドリングできる人がいないということだろう。情報リテラシーがないとも言える。情報のハンドリングだとかリテラシーを身につけるのに格好の場所は、本当は図書館である。どんなに読書家でも知的好奇心の強い人であっても、図書館の本をすべて読むことはできない。自ら、選択・構成することが必要になる。この力が、今、最も必要な知力である。これがない人は、情報に流されて溺れてしまう。
 しかし、私は勘違いをしている両極端の親たちに言いたい。

 良い絵本とされているリストかなにかをどこからかもらってきて、子どもに順番に読ませてチェックするようなことはやめてほしい。
 そんなことをしなくても、絵本そのものに子どもへの訴求力がある。自由に選ばせるべきだ。自由にというところがひっかかる人がいるのだろうが、私が言っているのは、自律的に選ばせるべきだという意味である。私にとって、自由とは自立であり自律であり自治である。これらは一体のものである。

 だから、一方で、子どもに携帯電話を持たせたりするのは反対だ。携帯電話というのは、相当、自己コントロールのできる人間でないと使いこなせない。だから、私自身も持っていない。安全や防犯以上の意味で子どもに携帯電話を持たせる必要はないと思う。ましてや、中学・高校生があんなものにうつつを抜かしていては膨大な時間の無駄だと思う。自分の時代にあんなものがなくて良かったと思う。ゲームや漫画についても、私は実は消極的なのだが、携帯電話はゲームや漫画ほどの価値もない。携帯電話などは、必要で仕方がないから持つというものだと思う。

 ゲームや漫画についてこういうことを書くと、目くじら立てる人がいるが、はっきり言おう。ゲームばかりやっている人間が優れたゲームクリエイターにはならない。ゲームのプログラミング自体は高度だし、内容にしたって、教養や創造力がなければつくれない。漫画もそうで、漫画ばっかり読んでいる人が優れた漫画家にはなれない。文学だけでなく、科学の本もたくさん読むべきだし、絵や写真や映画などもたくさん鑑賞する必要がある。

 要するに、幅広くいろいろなものを採り入れるということが必要なのだ。人間というものはもともとそういうふうにできているのだから。経済バカや政治バカが社長や政治家になると、世の中は悲惨だ。決して発展しないだろう。文化は決して「下部構造」などではない。

 スポーツ馬鹿も駄目だ。今の選手はすごい理論的・科学的になっている。昔とは違って来た。私は図書館の職員だから、スポーツを真剣にやっている人が、たくさん本を読んでいることを知っている。

 本当は「図書館の時代」なのだ。こんなに図書館を冷遇したり、軽く扱っていい時代ではないのである。図書館を冷遇するから、チープな文化ばかり流行るのである。

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2006年11月10日 (金)

お粗末政府

 タウンミーティングでやらせが発覚したから、タウンミーティングは当面、中止するそうな。お粗末。
 なにも中止しなくたって、やらせをしなきゃいいだけのことだろ。

 こんなことを口実にして、国民が直接、意見を言う機会をなくすなんていうのは、あまりにもわざとらしい。

 教育基本法改正なんかで、いじめ問題だの学力低下だの履修もれだのが解決するわきゃあないだろう。そんなに解決したければ、それぞれ個別法をつくっちゃえばいいじゃないか。近頃、くだらない個別法をいっぱいつくっているのだから。

 いじめ対策法、学力向上促進法、最低教育基準法だの。

 だから、教育基本法改正のねらいは、やっぱり愛国態度なんだって。アメリカみたいに愛国者法をつくるわけには行かないので、こんなことしようとしているんだって。

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2006年11月 9日 (木)

教育基本法「改正」はやらせ

 教育基本法「改正」についてのタウンミーティングで、またもや、やらせ賛成発言が発覚。それも複数。
 こりゃもう、この法改正自体がやらせであることの証左だな。

 憲法改正の国民投票でもやらせが起こりかねない。

 さて、このやらせの張本人たちは、ちゃんと陳謝や対処を述べているのだろうか?

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2006年11月 3日 (金)

レファレンス・サービスとは何か、なぜ、それに司書が必要か?

 馬鹿知事が出てきた背景は、馬鹿都民が多いからである。悲しいことだが。

 それで、レファレンス・サービスと司書との関係について、超簡単に書く。

 レファレンス・サービスとは、あなたが読むべき本はこれこれだなどとご指導することではない。
 本、あるいは情報の探索の「支援」「アドバイス」である。こういう本やデータを探しているのだが、どのような資料・情報源を当たればいいのかとか、そういう相談であって、偉そうにご指導したりするものではない。だから、尋ねる人の方に一定の力があるなら、最後まで回答をする必要は実はない。途中まででも、それ以降は独力で解決できるからだ。しかし、人は様々である。独力で解決できない人は、方法と典拠を示して、回答し、今後、その人が調べる際に、ある程度、独力でもできるようにする。レファレンス・サービスの成果とは、図書館側の成果ではなく、利用者側の成果なのである。
 このレファレンス・サービスを行う際に力を発揮するのは、実は、当該分野もろの知識ではない。当該分野もろの知識だったら、利用者自身の方がはるかによく知っている。必要なのは、情報を探すためのツール(道具)の知識、情報の情報(2次情報、3次情報)の知識である。これは、司書の教育と経験によって得られる知識の核である。
 利用者の資質が一定だったら、オートマティックに近いような人工知能的システムも機能する。だから、大学図書館のようなところなら一定の実現可能性はある。
 しかし、公共図書館のように、いろいろな人を相手にするところでは、とてもそうはいかない。はやい話が、成果を最大にするためには、機械よりも、安上がりの委託スタッフよりも、ちゃんと教育された司書の方が安いのである。
 専門職の司書の方が「安い」のである。ただし、これは成果あるいは効果を、水準以上で極大化しようと、きちんと意識した場合である。水準も基準も考えず、ただ、費用のことだけ考えりゃ、そうはならない。極論すれば、図書館なんてイラネという話になってしまう。こんな話は、一日中パチンコしている馬鹿が考えるようなことだ。

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口だけ知事

 東京都立図書館の司書が、定年退職でぐっと減る問題について、知事がオートマティックな図書館にでもすればいいような発言をしたらしい。
 そもそも、都立図書館では、貸出をオートマティックにするメリット自体がほとんどないのだ。現在、利用者に貸出しているのは日比谷図書館だけで、これは千代田区に移管されることになっている。
 他の図書館を、本気でオートマティックで貸出をすることにするなら一定のメリットはあるだろうが、あの人、本気でやる気があるんだろうか? その場合、私などは「調べ方」がわかっているから、司書にそんなに尋ねる必要がないから、困らないけど、かなり多くの人は困ると思うよ。というか、困る前に、ないと思ってあきらめるか、腹立てるかして帰るだろう。「ない」のではなく「見つけられない」にも関わらず。
 それから、レファレンスについては、まったくご存じないようで、司書に指導してもらうことだと思っているらしい。こりゃ、全然話にならないわい。司書はもともと指導なんかしてません。やっぱり、ただの頭古いおじいちゃんだな。

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2006年11月 1日 (水)

やらせをしてまで教育基本法を「改正」したいのはなぜ?

 9月に青森で行われた教育改革のタウンミーティングで、内閣府が、「改正」賛成の立場で発言するよう指示していたようだ。
 これはひどい。
 そこまでして「改正」したいのはなぜなんだ。

 やっぱり、本当の目的があるのだろう。どう考えても、憲法改正との絡みだ。教育基本法「改正」によって、政府が教育へ大幅に介入できるようにし、なおかつ、「国を愛する態度」なるもので「国民」を縛り、国家と国民との間に特別な関係を結ぼうということに違いない。国民は国家に命令される立場になるのである。

 とんでもない。

 こんなことでは、国家が盗賊に乗っ取られれば、国民は盗賊の命令を聞かなければならないことになる。北朝鮮のように。

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