高度情報社会という言葉がいつのまにか定着したけれど、まあ、このくだらないブログも含め、なんか、たいしたことない偽コミュニケーションがごしゃごしゃと増えただけというのが実情だ。
古くさくても、図書館の方が、いまだにはるかに価値がある。
ゆとり教育とやらは失敗した。しかし、綜合的な学習とか調べ学習というのは私は間違っていないと思う。いや、むしろ、これからの知価社会へ向けてはぜひ必要なのである。
ただし、これには大きな条件がある。まず、公立図書館と学校図書館が整備され、公立図書館が学校図書館を支援できるだけの質と量を持っていること。専門職である司書がきちんと採用・配置されること。それから、今は充て職である司書教諭をやはり、専門で専任の学校図書館の職員とすること。そして、教員の養成過程で、図書館情報学をある程度入れることである。
綜合的な学習や調べ学習がなぜ大事かというと、日本がこれからしなければならないのは、もう、追いつくことではなく、一番手を走る人にならなければならないからである。そこで必要なのは、構想力とか創造力である。そして、これらには、実は、地道な調査力とか実験力が必要なのだ。
なによりポイントは、「新しいものをつくる」ということである。だから、いわゆる試験ができる人というタイプではない。試験の場合、たとえどんなに難しくても答えはある。すでに誰かが解決しているのである。暗記ものの場合、もっと意味がない。インターネット・サイトや図書館を使えば、いくらでもすぐ調べられるのである。そんなになんでもかんでも内部記憶にする必要はない。また、暗記ものばかり試験すると、変化が激しいものは陳腐になるだけである。意味がない。
試験をするにしても、これからは、会場を図書館として、どの資料を使っても、また、友達と相談してもいいということにすればいい。そして、そういうのに相応しい問題を出せばよいのだ。これでもというより、これの方が本当の力は実は判明する。
綜合的な学習で課題を出されて、自動販売機のようにガチャンと出てくる答えを期待されて、児童・生徒にたくさん質問されたが、綜合的な学習をしているのは、当人ではなく親、いや、私たち図書館職員だった。そういう意味では、私たちの訓練にはなったけど、当人たちには何にもなっていない。
本当は、綜合的な学習など、答えは出なくていいのだ。過程が大事である。その過程を安易に他人に任せてしまっているのである。もう、深刻なほど、知的でない。考えるということをしない。学力の基礎は考える力である。当たり前だが。
だけど、何もわかっていない人に考えろと言っても考えられない。問題−答えという連鎖がしみついている人には駄目なのだ。
私がもし、教師なら、逆のことをやらせる。つまり、答えを先に与えておいて、問題なり課題なりをつくってくれということである。こっちの方がはるかに頭の力を試すことができる。また、答えはひとつでも問題は多様に設定できるから、それぞれの個性や独創性も見ることができる。答えがひとつの問題を出すというのは、その時点で画一化しているのだ。これからの知価社会では、画一化はむしろ有害である。その点、国民自体がもっと自覚しないといけない。
最近のコメント