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2006年9月26日 (火)

大霊界へ

 丹波哲郎さんが亡くなった。
 面白い人だったので、とても残念。
 もっとも、面白いなんて言っちゃ失礼なのかも。往年の大スターだ。

 老人独特の厭味のまったくない人だった。私はああいう年寄りになりたい。普通、胡散臭いと思う心霊関係の話が、あの人が言うと、そう思わないのだ。
 大霊界でどうぞ待っていてください。丹波氏が大霊界とやらにいるのかと思うと、死ぬのがちょっと怖くなくなった。

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勉強が絶対できない方法

 どうすれば勉強ができるようになるかというのは知りたいところだが、こうすれば、絶対に勉強はできないだろうということはわかる。これを知っていれば、少なくとも、とんでもなく悪い成績にはならない。

1 同じ事で馬鹿らしいから復習はしない。
2 ひたすら綺麗なノートを作成する。
3 得意なところも不得意なところも区別なく同じようにやる。
4 まとまった時間がとれないときは勉強しない。
5 図書館の閲覧席など、いかにも静かなところでないと勉強しない。
6 眠くても勉強する。
7 誰かと一緒でないと勉強しない。
8 ラクな方法では勉強しない。
9 とにかく緊張して勉強する。
10 だらだらと長時間勉強するか、極端に勉強時間が短い。

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早死にの秘訣

 長生きの秘訣は難しいけれど、早死にの秘訣は簡単だ。

1 ひたすら、いろんなことを心配しているか、まったく何も考えないこと。
2 何をするのにも休みを取らないか、まったく働きもしなければ勉強もしないこと。
3 できるだけ動かないか、動きっぱなしでいること。
4 年がら年じゅう食っているか、ちゃんと食べないこと。
5 常に陰鬱な気分でいるか、その逆にはじけまくっていること。
6 怒ってばかりいるか、諦めきっていること。
7 お笑いは一切、見もしなければ聞きもしないか、何一つまじめに考えないこと。
8 美しいものがない環境にいるか、神経質なほどの潔癖症。
9 宗教にはまりすぎているか、宗教をないがしろにしている。
10 寝てばかりいるか、居眠りする時間もない。

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2006年9月25日 (月)

日本人に本当に愛国心があったら

 本当に愛国心を教育しようと思っているのだろうか?
 下手をすれば、現代の支配層にとってはやぶへびになる。
 それは、まぎれもなく現代の支配層が日本を悪くしているからである。
 愛国心があるなら、彼らを打倒しようと思うだろう。赤軍やオウムなどとは違った形のテロが起きてくるに違いない。自らそういう状況をつくりだしていいのだろうか? あるいは、それが狙いなのだろうか?
 闇の権力がどんどん人を食っていく。芥川龍之介の河童と同じだ。

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愛国心で教育問題は解決しない

 愛国心だの国を愛する態度だの、そんなことを教育基本法に盛り込もうとしているのは、本当に教育問題を解決しようとしているからではない。
 東京都教育委員会が教員に日の丸に向かっての起立や、君が代斉唱を強要していることに現れているように、自由主義を制限しようとしているのである。法律で、国民の自由を制限できるようにしようとしているのである。名前は自由民主党だが、現在、その名前とはまったく反対の方向に進んでいる。国民の自由は制限し、いわば、金持ちの金持ちによる金持ちのための政治と社会を実現しようとしている。金もない人が、こんな吸血鬼のような連中を支持しちゃだめだ。
 愛国心教育では、少なくとも学力は上がらない。
 せいぜい、吸血鬼の皆さんに従う奴隷根性が身につくだけだ。
 まさに、国家の奴隷を養成しようとしている。それが教育改革とやらの正体である。そして、その国家は国民国家ではなく、巧みに、金持ちとカルト宗教集団(これも金づる)が支配しているのである。

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2006年9月23日 (土)

製本

 タモリ倶楽部で、製本のことをやっていた。おもしろい。
 角背の本は開きにくいから嫌いだな。
 丸背の本がやっぱりいい。
 手を離して、ページを開いたままにしておける本が一番読みやすい。

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2006年9月22日 (金)

圧政からの解放

 権力が人々に何かを強要するのを圧政という。
 圧政とは民主制の反対だろう。納得して行うことではないからだ。
 アメリカは、本来、圧政からの解放を目指して建国された。そういう共通の納得が星条旗への敬意を生んでいると思う。
 国旗というものにはこういう敬意がはらわれるべきである。
 従って、国旗や国歌を無理やり押しつけるということは、その行為自体が、国旗や国歌への敬意を欠いていることのように思う。
 日本は確たる自由主義国家なのだから、自由主義の核となる、思想信条の自由は確実に守ってもらいたい。

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星条旗

 アメリカの国民は随分と星条旗を大事にする。
 しかし、以前、テレビで見て驚いたのだが、ハワイの原住民の血をひく人の中には、反発して、星条旗を逆さまに掲揚している人がいるということだ。
 日章旗について、本当のところ、沖縄の人やアイヌはどう考えているのだろうか?

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君が代

 職務命令というものは強制が伴うものだが、明白に違法な命令には、むしろ従ってはいけない。最高裁では、どうせまた、保守的な判決になるのだろうが、東京都教育委員会の命令は不当な命令という程度の範囲はこえていると思う。現行法では、私はやはり憲法違反だと思う。
 しかし、本質的には、強制しなければ歌ってもらえない国歌、掲揚されない国旗というものが、果たして適切なのかどうかということだと思う。
 国旗掲揚も国歌斉唱もいいと思うが、国旗も国歌も変えればいいんじゃないの、単純に。いいものが思いつかないというほど日本人も創造力が貧困ではないだろう。

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2006年9月21日 (木)

教育基本法改悪するくらいなら廃止の方がよいかも

 教育基本法に、国を愛する態度なんていう変なものを入れるくらいなら、教育基本法なんていう法律自体、廃止したらとも思ったりして。
 だいたいこれは、教育勅語なんていう変なしろものがあったから、それに対抗してつくったようなもんでしょ。

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2006年9月19日 (火)

教皇の発言

 教皇の発言にイスラーム教徒が反発している。
 もっとも、教皇の発言は引用らしいから、そこらへん、もっと事実関係をはっきりさせてほしい。
 ただ、変な言い方だが、イスラーム教徒に、真意とは異なる引用というものがどれだけ理解されるのかわからない。
 イスラーム教徒の反発自体は理解するが、これを理由にテロをする理由はまったくわからない。それでは、教皇の引用の内容をそのまま肯定していることになってしまうではないか。すでに、カトリックの修道女を殺したという。なんという酷いことだろうか。こんなことをしたら、世界の人々は、やっぱりイスラーム教徒というのは、暴力や残虐さをもたらすのだと思ってしまう。イスラーム教徒自体がテロは間違っているともっとはっきり言わないと駄目だ。
 テロリストについて、彼らはムスリムじゃないとムスリム自体がはっきり言明することが必要だと思う。

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2006年9月17日 (日)

石田徹也という画家

 NHKの新日曜美術館ではじめて知った。
 ものすごい画家だ。亡くなってしまったのが残念だが、必ず世界的な名声を得るだろう。
 描いてばかりいたらしい。描かざるを得なかったということらしい。
 しかし、それは、たぶん、彼は「見てしまった」からなのだ。
 彼は見ていたのだ。すべて。
 画家も作家も見たものを描き書く。作曲家はつくるというより聞いたものを譜面に落としていく。
 学者も自分でこねくりまわして何かをつくるのではない。見えてしまうのだ。それを実験したり、検証したりするのだ。

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老人問題

 麻生氏は、65歳以上の高齢者の15%しか介護を受けていないなんて言っているが、そりゃそうだよ。65くらいじゃ、まだそんな状況にはならない。ところが、70を過ぎ、75を過ぎてくると全然違ってくる。
 65、70、75、80、85、90、95、100これらの人を同列に扱うことは無理なのだ。高齢者というのは大変な幅があるのだ。同じ幅で、20以上の人を並べると、20、25、30、35、40、45、50、60ということになる。これは結構違うよ。
 20から25の間で就職していない人の率なんていうのも無意味な数字だね。かなりの人が4年生大学へ行くのだから、22〜23までは就職していない人が相当いるに決まっているのだ。
 図書館の利用率だか登録率というのも同じようなところがあって、図書館が近くにない地域だったら、利用も登録のしようもないから、わざわざ遠くまで出かけていくよほど熱心な人しか数字があがってこないのは当然なのだ。

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2006年9月15日 (金)

犯罪は病気?

 植草教授の犯罪で、彼は病気だという説をテレビで言う人がいる。私もそうじゃないかとなんとなく思ったが、客観的な根拠がない。
 なんか、犯罪そのものが病気なんじゃないかと思えるときがある。
 そうだとすると、病気だったら罪に問わないとか減刑という話自体がひっくり返る。

 しかし、病気と考えると、犯罪防止の手段とは、つまり、病気の予防ないし治療ということになる。病的に犯罪を繰り返す人は、その犯罪をやめられない病気というより、うそつき病のように思える。

 平気でうそをつく病気があるように思う。都合のいいときに、自分が自分でなくなり、すべてごまかすのである。だから、犯行に及んでいるときは、自分を偽っているのである。だから、犯行の自覚もはっきりなく、悪魔だの他のもののせいにする。

 うそをまったくつかない人間というのはほとんどいない。もし、私はそうだと言う人がいるなら、それ自体が大うそであろう。人間はある程度、ごまかしごまかしでないと生きていけない。でも、ごまかしていること自体をごまかしている人がいるようだ。これが一番恐ろしい。

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2006年9月14日 (木)

犯罪記事

 法令に抵触しているおそれがあろうとも、一度、公に出版されたものを図書館が引っ込めるということはすべきでない。
 図書館もひとつの教育機関であり、また、自治体の組織である。その意味から、法令違反はできないわけだが、法令に抵触しているおそれのある資料を提供することが、ただちに法令違反となるわけではない。また、法令に抵触していることが濃厚な資料であったとしても、資料として収集・保存する必要性をなくさせるわけではない。また、提供することやされることの自由は、そんなに簡単に返上していいものでもない。我が国は自由主義国家であり、思想や言論にかかわる自由は、自由の中でも最も本質的なものであり、最も尊重されるべきものである。このことは現行憲法の内容も形づくっている。
 最小限、ありうるとしても、裁判としての判断が確定し、司法機関から、しかるべき命令等が出されている場合に限ると思う。せいぜいが、極めて限定的な提供制限だろう。しかし、図書館の資料を棄損するような命令を裁判所が出すとはとうてい思えない。
 かりにそんなことがあったとしても、それでも、なおかつ、図書館は資料は保存すべきだと思う。なぜなら、他に保存するところがないからだ。行政関係者はこういう言い方は嫌がるだろうが、人類の長い歴史において資料が残らなかったのは、ほかならぬ権力による圧力によってである。失われた記憶は、よくも悪くもあまりにも膨大である。
 図書館というところは、何も「良い本」だけを持っているところではない。記憶というものは、都合のいいことだけ覚えておけばいいというものではないのだ。
 しかし、週刊新潮とか、ここらへんのわざとらしさは大嫌いだ。読売新聞も、憲法改正や教育基本法改正をあおっているようで嫌いな新聞だが、実は、自分は購読している。販売員がうるさくてしょうがないからだ。私の頭の中では、読売新聞=押売新聞である。もっとも、読売新聞の人生相談は興味深い。助言者がとてもいい助言をしている。立松和平氏の助言が一番好きだ。
 話がそれてしまった。

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2006年9月12日 (火)

いい大学へ行きたければ勉強するな?

 日本史を必修にするという話が出ているらしい。まあ、当然と言えば、当然。しかし、それに伴って、世界史を必修からはずすというのは反対だ。私が高校生の時は、世界史は必修ではなかった。しかし、世界史も日本史も政治・経済も理科系へ進学する人もやっていた。文科系にしたって、日本史と世界史両方受験するという人はほとんどいない。しかし、それでも授業ではやった。私も受験では世界史と倫理・社会だったが、日本史も政治・経済もやった。
 本当は地理だってやった方が良かったのだと思う。また、とくに理科系の人はそうだが、受験科目になくたって、生物・化学・物理・地学全部やるべきだと思う。文科系の人間だって、このうち3つくらいやっていいと思う。
 試験にない科目は全然勉強しないってどうなんだろうな。試験のための学校じゃないだろう。もちろん、大学の教養課程でまた選択することはできるかもしれないが、なんでもかんでも後回しにしてしまったら、大学の専門教育がはやく始められない。
 とにかく試験科目にないからと言って、どんどん必要な科目を減らしたり軽視するのはよくない。保健なんていう科目は、受験科目にはほとんどならないけれども、本来は非常に重要な科目だ。自分の健康そのものに関わるのだ。保健をまじめに学習している生徒が増えれば、脳卒中もがんも糖尿病も、精神病も減るかもしれない。

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2006年9月 4日 (月)

日本の支配層

 一般庶民は、日本にもれっきとした支配層がいることを忘れている。それは、やはり、天皇という権威とともにある。
 昭和天皇は、日本民族絶滅をおそれて降伏したが、これは一般庶民を思ってというよりも、皇統断絶や、その他支配層の人間の地位の保全を考えたからである。
 大臣にしろ、大会社の経営者にしろ雇われ人である。
 制度としての貴族が廃止されようと、現実には残っているのである。
 国という制度は、やはり支配するものと支配されるものとの関係である。
 自治を主眼に置くならば、どんなに広くても自治体である。
 また、自治を主眼に置くならば、かつての堺のような自治都市や一向宗のような宗教国家も認めざるを得ないが、現行法令はそれを認めない。内乱・政府転覆の類とされるだろう。
 私は無政府主義ではないが国家主義ではない。政府というものは、基本的に自治組織でないといけないと考える。

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阿部総理の危険性

 阿部氏は憲法改正も言っているが、教育基本法改正も言っている。これを最重要課題と位置づけている。
 何度も言うが、教育基本法を改正したところで、教育問題は解決しない。さらに、愛国心だの愛国態度だのを入れたところで、教育問題は解決しない。こういうのは大和魂的精神主義だ。大和魂では結局、戦争に負けた、しかも、大敗北、民族絶滅の淵にまで立たされたことを忘れるな。
 天皇は、自分が殺されるのがいやだから、降伏したのだ。責任は、大臣たちに負わせればよい。だいたい、神聖にして侵すべからざる天皇には権限はあっても常に責任はないのである。
 広島、長崎の次は東京に原爆が落とされると思ったからだ。国民が気の毒だと思ったからだとしたら、あまりに判断が遅すぎる。
 神とは人身御供を要求する存在である。国民をかわいそうなどと本当のところそれほど思っているわけがない。戦後、日本各地をまわった体験から、そこらへんの感覚は変わっただろうが、戦前・戦中にそんなに感じていたとは思えない。
 愛国心が決められて、天皇が元首になったら、それは、天皇への絶対奉仕に逆戻りである。愛国心などというもの自体が、もともと宗教的なのである。戦前・戦中の「国」とは、ある意味、非常にわかりやすく、天皇を家長とする日本一家のことなのである。日本というお家大事に生きろということなのである。
 日本というお家大事に生きろ、いや「死ね」という意味では、今度もまた、同じなのである。いやだいやだ、くだらねえ。

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2006年9月 2日 (土)

憲法「改正」反対

 阿部氏が首相になりそうな見通しになってきて、憲法改正がよりはっきり言われるようになった。
 とてもとても危険なことだ。
 憲法改正の主要な目的は、9条改正であって、集団的自衛権の名のもとに、予防戦争とやらいうものができるようにすることである。
 これは、とてもとても危険である。
 戦争というものでは、殺人がいわば合法化される。正当防衛だったら殺人もやむをえないなどという一見わかりやすそうな理屈でごまかそうとするのは無理がある。
 日中・太平洋戦争の時とは違うというのも詭弁である。
 イラクでアメリカがやっていることや、中東でイスラエルやヒズボラがやっていることは、日中・太平洋戦争と本質はなんら変わらない。
 日米同盟などと言ったって、実態は、アメリカの日本併合、日米合邦であり、日本は明きらかに下位に存在するのである。米日連合として、国際社会で危険極まりなく、かつ、独善の役割を果たそうということである。
 女殺しや子殺しを誤認しただの、相手側の人間の盾だの言ったって、そんなのは言い訳である。本当に相手を叩こうと思ったら、最初からそんなのは折り込みずみ、敵国の一般人を一緒に殺してしまうのはやむをえないというのが、元来、戦争の考え方なのである。戦争というものは、非常時のものであって、普遍的な規範や倫理などは吹き飛ばされるのである。それでいて、命令・服従関係だけが支配し、それがくつがえされるならば下克上の世界になるだけの、あくまで野蛮な世界なのである。それが実態だ。

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