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2006年7月31日 (月)

マナー その2

 マナーがない人間は思いやりがないと書いたが、もっと単純に、他者に対して、あまりに無関心という人がいる。社会に対する関心など皆無である。だから、当然、政治・経済などには関心がない。
 そのときどきの自分の情動だけで生きていると言ってよい。このような人は、マナーというより知性そのものが足りないのかもしれない。動物に近い存在である。

 しかし、戦争などになると、思いやりだとか他者への関心などというものは吹き飛ぶ。戦争などになるとマナーどころではない。そんなものは消滅する。戦争でなくても、ひどい状況で暮らしていると人間はそうなる。

 軍隊の綱紀などは守られた試しがない、守ったところがあったとしたら、太平天国軍と八路軍ぐらいだという話を聞いたことがある。軍隊などという、人間性を押しつぶしたところだったら、確かに、綱紀など成立しえないのだと思う。だから、虐殺だとか強奪だとかそういうことも起きるのだろう。

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マナー

 マナーが悪い人というのは、それが悪いということ自体、認識していない。というよりも、他の人のことなどどうでもいいと思っている人間である。だから、図書館の本をだまって持っていたりしてはいけない、切り取ってはいけない、書き込んではいけないなどということを言われても、ばれなければいいと思っている。他の人が読むことなど一切、考えていないのである。あきれたことに、公共経済学の本の「公共財」というところに黒々と線が引かれているのを発見したことがある。こういう人は、公共財とは何か、本質的には理解できないだろう。
 こういう人間は、思いやりというものを根本的に欠いているので、社会で重要な地位につけては決していけない。こういう人間が社会で重要な地位を得ると、単なるマナー違反どころではない災禍をもたらす。
 会社の経営者だとか、政治家だとか、行政官僚だとか、医師だとか、教育者だとか、そういう人たちにもっとも求められるのは、他者へのまなざしなのである。
 他者へのまなざしを持たない人間は、一生、単純な仕事で、しかもその仕事をちゃんとしているかどうか監視・点検されるのも致し方ない。
 他者へのまなざしを欠いている人間は、結局、他者から信頼を得られず、常に監視され、点検され、懐疑の目で見られ、満足に扱われることのない惨めな人間なのである。そうして、そういう人間は、思いやりを欠いているために、自分が思いやりがないことが原因であることにちっとも気づかず、まわりの人間に憎悪や敵意を持っているから、ますます、自分勝手な行動をとるのである。
 マナーとは思いやりであり、思いやりを持っていた方が、はるかに生きやすいということである。それを発見できるかどうかというだけの話である。マナーとは、結局は、自分も他人も快適に生きるすべなのである。

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2006年7月18日 (火)

ほどよくいられない世の中

 まったくもって、もっとほどよくのほほんといたいのに、毎日毎日ショックなことばかりで、つい過激になる。
 責任感というものがどこかへ行ってしまった。
 日本人の責任感は世界一流のはずだったのに。
 役員が3人そろって謝ればいいというものじゃない。

 結局、変なリストラなどをやりすぎて、責任感というより変な忠誠心を持った人ばかりになっちゃたのではないだろうか。

 日本国民も国民としての責任を忘れて、愛国心なる変なもので代替しようとしているような気がする。

 いやだいやだ。

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2006年7月16日 (日)

図書館や病院は競争より協力が有効

 なんでもかんでも競争原理がいいと思っている人がいるらしい。スポーツやゲームはともかく、ある課題を解決するためには、いろんな人が協力した方がいいという事の方が本来は多いはずだ。
 図書館もその典型である。
 なぜなら、ひとつの図書館で買える本などたかが知れている。しかし、図書館同士で協力して、相互貸借、さらに進んで、分担収集・保存などをすれば、どんなに小さな図書館であっても、図書館ネットワークを通じて大図書館なみのサービスを受けることができる。
 現在、日本で出版されている本を1冊ずつ全部買ったら、年間約1億7千万円かかる。これほどの資料費を持つところは少ないだろう。しかし、図書館協力を進めれば、1億7千万円の単位をいくつもつくることができる。すべての本を提供することは、そんなに難しくないのだ。
 病院もしかり。
 マスコミの一部は、病院も競争時代だなどとあおりたてるが、重大な病気を持つ患者の家族としては、病院は競争などよりも協力してほしい。病院を越えて、重大な病気もチームであたってほしいのだ。それの方が医師や看護師だって育つと思う。
 競争原理というと、優れたものが出てくるということばかり目が行く人がいるようだが、一方で、わざわざ劣ったものをつくりだすという一面もあることに注意すべきだ。
 競争でなく、協力を進めることによって、全体のレベルを上げていくということもできるということを、もっと、みんな考えてほしい。わざわざ劣ったものを作り出すのは、もうやめてほしい。

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なぜ、指定管理者制度は図書館に向かないのか

 公の施設の運営を民間企業も含めて代行させることのできる指定管理者制度が、地方自治法の改正によって数年前に成立している。
 この制度のメリットとしては、大きなものは次の2つだろう。

1 行政側にはない専門知識やノウハウを生かせる。
2 民間企業のコスト感覚を導入できる。

 ところが、公立図書館についてみると、次のような点から向いていないことがはっきりしている。

1 民営の図書館というのは、ないわけではないが、極めて少ない。また、いわゆる私立の図書館は、そのほとんどが専門図書館で、広く地域住民を対象とした公共図書館と同じものはほとんどない。つまり、公共図書館というのは、行政側に専門知識やノウハウがある数少ない分野である。

2 公共図書館の原則は無料サービスである。無料と言っても、経費がかからないわけはなく、言い換えれば、税金によってサービスを賄うということが原則である。従って、使用料などを徴収するサービスとは根本的に異なる。税金の使い方とその効率・効果という行政自身のコスト感覚がないかぎりはどうにもならない分野である。
 このため、無料原則そのものを問題視する意見があるが、次の諸点から、無料原則をなくしたら、それは、もはや公共図書館あるいは公立図書館とは言えない。

公立図書館が無料であることの重要性

(1)公立図書館は人権保障機関である・・・公立図書館は、学習する権利という基本的な人権を保障する機関である。従って、はてしなく貧乏であっても、また、住民としての実態はあっても、一般的な国民としての扱いを受けられない立場であっても、サービスは提供されなければならない。なぜなら、いかなる自由競争の社会であっても、その出発点から差をつけてしまったら、それは公正な競争が成立しないからである。競争に公正さが成立しなければ、競争というもののメリット自体がなくなる。

(2)公立図書館は自由と自治と民主主義の砦である・・・人々に考える自由と学ぶ自由が保障されなければ、自治も民主主義も成立しない。また、自由主義も成立しない。この自由を保障するためには、そこに制限があってはならない。年収200万円未満の人に、年間20万円相当、本や雑誌や新聞やデータベースやインターネット代を自分でまかなえと言ったら、かなり無茶な注文である。しかし、年間20万円相当くらい資料や情報を見なかったら、深くものを認識し考えるのはもはや不可能である。個人の自由が成立していなかったら、地方自治も地方分権も成立しない。

 さて、一番、重要なことは、公立図書館は社会改革のエンジンにならなければならないということである。そんなに「静かな場」ではない、ダイナミックな場なのである。
 社会の改革は意識からである。意識を変えるのは、思想や科学である。さまざまな思想や科学が公平に豊富に提供されていなければ、社会は進まない。平和の実現や環境問題の解決、地域経済の活性化のためには、もはや、いわゆる専門家や担当者だけではどうにもならない。市民的な行動が求められている。このような重要課題に図書館が「インテリジェント・エンジン」として関わる事が必須である。そこまで図書館は大事なのである。税金を重点的に投資すべき分野であり、戦略がうまくいけば、リターンも大きいのである。従って、今の図書館でもっとも大事なのは地域の戦略と連動していることであり、このような大事なものの運営を他に代行させるのはまったく適切でない。

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2006年7月 6日 (木)

本は買うものだという人はお金持ちなのかな?

 本は買うものだという人がときどきいる。確かに、買わなければ、出版社も書店もやっていけない。しかし、自分が読んだり使ったりする本や雑誌や新聞を全部買うのはきびしい。理由は2つ。そんなにお金がないのと、保管するスペースがない。
 昔、私の家では、3つ4つの新聞を購読していた。2つは一般の新聞、もうひとつふたつは、小学生新聞とか、英字新聞とか、競馬新聞とか、はたまた、政党の新聞とかだった。なかばおつきあいでとったものもある。読み比べると、同じ事柄の記事でも、ずいぶん違っていることがあり、世の中が多角的に見えた。事実そのものの扱いからして、微妙又は大幅に違うのである。そこで、私はもう一紙読みたいと言ったら、母親に、「馬鹿言うんじゃない。どこにそんなお金あるの。」と言われた。
 雑誌も結構、定期購読していた。○年の科学だとか、小学○年生だとか、週刊○○百科だとか、テレビやラジオ放送のテキストだとか、科学雑誌だとか、英文の雑誌だとか。
 うちはそんなに金持ちじゃなかったけれど、本を買うお金はほいほいくれた。ただし、漫画(学習漫画を除く)はダメだった(というより、それほど漫画を読みたいと思わなかった)。
 図鑑や辞典・事典も含め、本はほいほい買った。英語の辞書なんか、ランダムハウスの大きい辞書から、普通に勉強に使う辞書、さらに小型で持ち運びに便利な辞書、英英辞典なんかまで、いろいろ買った。同じ言葉で、あっち引いたり、こっち引いたりした。国語辞典も漢字辞典も複数あった。
 百科事典も1セットあったが、もう1セットほしいと言ったら、これもさすがに、「なに馬鹿言ってんの。どこに置くのよ。いい加減にしなさい。」と言われた。
 で、こんなに出版社・書店に貢献している僕でも、学校・大学の図書館からはいつもたくさん本を借りていた。私が行った学校は私立で、小学校から図書館が結構充実していたので、地元の公共図書館からは借りたことがなかった。また、大学は田舎へ行ってしまい、驚いたことに、当時、そこには公共図書館がなかったので、仕方がないので大学の図書館から借りまくっていた。大学の図書館にない本は買いまくっていたので、卒業するときには家に持ってかえるのがとても大変で、かなり沢山、古本屋さんに売った。捨てた本はない。
 これらの本や雑誌や新聞を全部自分で買っていたら、年間40〜50万円は軽く行くような気がする。ある程度の仕事をしていれば、確かに払えなくはないが、旅行も何もしない、読書以外に一切遊びはないという人でもないかぎり、そんなに使う気にはならないだろう。まして、最近のように貧乏な人が増えると、こんな金額はとても無理だ。
 本は全部買え、図書館なんぞ要らない、という人はいったどんな読書をしているのだろう? それとも相当な金持ちなのかな? 金持ちでも古い本や雑誌などは、わざわざ探して買うよりは、図書館の方がよほどはやいこともあるんだけどな。
 本は全部買っているなどという人は胡散臭い。よほどくだらない本ばかり読んでいると思われる。

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2006年7月 4日 (火)

東京23区の図書館の愚昧さ

 東京というのは、国際的な大都市である。これを疑う人なんかいない。ところが、このような大都市の区立の図書館というのは、司書を採用していないのである。特別区の採用試験に司書という区分はない。図書館はいっぱいあるのに。
 司書も採用していないで、一般事務職をごろごろまわしていたくせに、図書館のサービスの向上のためとか嘘を言って、パートの導入や委託、さらには、指定管理者制度の導入を図っている。
 いいかげんにしろ、と言いたい。これこそ、自作自演だ。専門職を採用しなかったら、サービスが悪いに決まっているだろ。素人運営なんだから。それでもって、人件費を安くあげるために委託とは恐れ入る。しかも、その委託の方に司書がいたりする。
 専門職でも司書でも何でもない事務屋の職員が時給換算にしたら何千円ももらっていて、委託の司書は800円か900円でこきつかわれるなんて矛盾以外の何物でもない。
 頭がおかしい。何が行政改革だ。くだらん。

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2006年7月 3日 (月)

小売店はなぜダメになったか

 専門家でもないのに言わせてもらうが、それは、私だって消費者だからだ。小売店は大型化して、ひたすら安売りになってしまった。同じ物なら安い方がいいなんていうのは、経済学の教科書にも載っている話だが、人間というのは意外とそうでもない。そもそも、何が本当に同じと考えられる物なのか十分に情報を収集、比較分析できる人などいないのだ。
 私が、かつて、パソコンなどを大きなお店で買ったのは、安いからというよりも、いろいろな物を比較して見ることができたからだ。
 物やサービスには必ず情報がつきまとう。ところがこの情報は膨大である。それを整理した状態で物やサービスを購入する人は少ない。この情報自体を公平に整理するサービスが必要だと思う。
 極論かもしれないが、お店の中に、店員でもない案内の人がデスクにいて、その人に聞くと、図書館のレファレンスよろしく、要望にあった物をアドバイスしてくれる、まあ、コンシェルジェみたいな人がいるといいなあと思う。まあ、いるところもあるんだろうが。
 ところで、こういうコンシェルジェみたいな人なんかいなくても、もともとは店員そのものがそういう人だった。ところが、店員をみんな派遣だとかアルバイトでいいやなんていうことにしちゃったから、全然、店員が物を知らない人になってしまった。
 私は図書館屋だから思うのだが、書店などで、客が店員に本をきいている時に、あっさり「ございませんので、ご注文になります。」などと言っている人がいると、もったいないと思う。こんな場合、客は注文だと遅いと思って、いらないと言う人が多いのである。私は、その関係の本だったら、ずばり、それでなくてもあれがあるぞと思いつくのである。そして店内をまわってみると、その代替本があったりするのである。図書館なんかで、この代わりのものを見せると、「あ、それでもいいです。」という人は結構いる。書店でだって、いると思う。それどころか、「こんなのがあったのか。こっちの方がいいや。」という人もいる。普通の商売でもそういうことはあるんじゃなかろうか。店員というのは、お客のニーズと商品を結びつける人じゃないのだろうか。ただ、売っているだけだったら機械でもできると思う。

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2006年7月 2日 (日)

貸出・予約・読書案内・レファレンス・ビジネス支援の関係

 貸出とは、図書館の資料を利用者に貸し出すことだが、それに伴う顧客としての利用者へのアプローチをふくんだものを言う。
 予約とは、資料が貸出中、未所蔵などの理由により、その場にないときに、返却まち、他図書館からの借用、購入などの方法によって利用者に提供することを言う。だから、この「予約」も貸出の一部ととらえられている。
 読書案内とは、資料相談などとも言われる。readers' advisory serviceの訳で、直訳すると読者支援サービスである。英語では、図書館の利用者なども含んで、読者という言葉をかなりよく使う。図書館の利用者に本を案内したり、検索・探索の方法をアドバイスしたり、利用者が求めているさまざまなテーマや内容の本をアドバイス(推薦や指導とは違って、助言、つまり選択・決定の主体はあくまで利用者)することである。読書案内を読書指導と混同している人や、単に書架を案内することとかんちがいしている人も結構いる。
 読書案内から貸出につながることは当然である。そして、その場に適切な本がなければ予約になる。だから、これらは一体的に「資料を提供する仕事」として機能する。
 図書館は貸出しかしていないみたいなものいいをする人はこの一体性をよく認識していない。
 レファレンスというのは訳しにくいが、辞書には照会などと載っている。参考業務などという、普通の人にはよくわからない訳もあるが、要するに、資料を使って、様々な質問に回答する業務である。これは、貸出とは一線を画して語られることが多いが、現場では、読書案内と密接に関係し、区分しがたい場面が非常に多い。
 学問的分類にこだわりすぎる人は、貸出も十分でないのにレファレンスなどしてもしょうがないように言う人がいるが、あまりにも実践的でない。レファレンスを一所懸命やれば、当然、紹介した資料を借りたくなるのが普通で、レファレンスを一所懸命やれば貸出が増える。逆に言うと、うちの図書館は貸出主義じゃなくてレファレンスに重点を置いていますだとか、うちの図書館は貸出に重点を置いているので、レファレンスは今後の課題としていますなんて言っている図書館は、実力がないことの言い訳として、いろんなことを言っているに過ぎない。貸出とレファレンスの実績には密接な関係がある。貸出の少ない図書館に、満足な量や質のレファレンスがあるわけもなく、満足な読書案内やレファレンスもしない図書館が、量も質もそなえ、多様な住民の要求にこたえた貸出実績をあげることもできない。
 ビジネス支援についても、新手のイロモノのように言う人もいるが、ユネスコの公共図書館宣言などにも内容的にもられているオーソドックスなことで、これも、地域のビジネス・ピープルを資料の貸出やレファレンス・サービス、データベースその他の情報の提供によって支援するということである。もうひとつ重要なことは、アウトリーチと言って、直接、そういう人々のところに赴いて、図書館サービスの案内をしたり、資料・情報を提供したり、具体的なニーズをつかんできたりすることである。
 これらは、まったく矛盾しない。ところが、これらをめぐって、不毛な論議にもならない論議をしている人たちがいるのはまったく不思議なことである。
 

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2006年7月 1日 (土)

貸出冊数制限の厳しいところは調べものを軽視している

 貸出冊数制限が厳しいところで、その理由として、調べものに対応するためなどと言っているところがあるとすれば、それは、単なる言い訳だと思う。誤解がないように言っておくが、都道府県立図書館や専門図書館は除く。一般の区市町村立図書館の場合である。
 いろいろ調べるためには、たくさんの本を参照しなければならない。だから、図書館の開館時間内だけでは限界がある。貸出しというのは、図書館を極端に長く開館しなくてもすむひとつの方法なのだから、開館時間も長くなければ、貸出制限もきつい図書館などというのは矛盾している。ところが、実際は、この矛盾した図書館が結構ある。
 ただ、資料が極端に少ないところではやむを得ないだろう。たくさん貸しちゃうと本がなくなっちゃうのだ。とは言っても、資料が極端に少ないところがそんなに貸出しが多くなるとも思えないので、杞憂だと思う。
 もう、最低、1人10点くらいまでは貸していい。それを下回るのは少なすぎると思う。

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