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2006年6月28日 (水)

公共図書館がその運営を民間委託したり指定管理者に代行させたら、もはや「公共」図書館ではない

 公共図書館は、公共的な団体がやっているから公共図書館なのである。公共的な団体とは、必ずしも政府(行政府)ではないかもしれないが、少なくとも、民間企業は公共的な団体とは言えない。民間企業がやっている図書館は民営図書館、私立図書館、図書館会社といったようなものである。
 私は、これらのものを否定しない。なぜなら、日本は自由主義の国であり、誰でも自由に図書館を開設していいと思うし、それを営利事業にしてもかまわないと思う。実際、まんが喫茶などでは、まんが図書館と称しているところもある。
 しかし、民営の図書館があっても、公共図書館の必要性がなくなるわけではない。民間企業が図書館をやろうがやるまいが、公共サービスとしての図書館は絶対必要なわけだ。
 理由は簡単だ。図書館は金がなければできないからだ。資料をそろえるため、専門的なスタッフを雇用するため。図書館は金がかかって当たり前と言うか、金をかけなければかえって公共サービスとしての図書館の意義がない。こういう金は税金のような強制力のあるものでないと集まらない。もちろん、かけた金は有効かつ効率的に使わなければならない。しかし、図書館への金を減らして効率的とは大間違いである。
 利益を生む範囲の図書館サービスはごくごく限定される。それこそ、まんがやCD、雑誌、ベストセラーくらいが限界だろう。しかし、図書館にそんなものだけでよいのだろうか? また、まんがやCDだって、マイナーかもしれないがいいものもある。そういうものは営利事業では集めきれない。
 直接的な利益には結びつかなくても、住民にとって価値ある公共の図書館は絶対必要なのである。それは地域の財産だからだ。公共の図書館サービスの利益は、運営者側にあるのではなく、顧客である住民の方にあるのである。ここが、営利事業とのもっとも大きな違いである。
 そもそも図書館について民営化とか、指定管理者制度の導入などというのは、出発点から間違っている。図書館は官の独占物ではないのだから、やりたい人たちは、事業として自分たちでやればいいのだ。しかし、それでも、公共サービスとしての図書館は絶対必要なのだ。図書館は国家の存立基盤である国民、自治体の存立基盤である住民そのものの自由と自治、教育(学習)と情報アクセスのために必須のものであり、これがなければ、本来、民主主義や自由主義社会は成立しないのである。
 図書館を重視しない社会は民主主義社会でも自由主義社会でもない。図書館を重視しない政治家や政治団体が民主主義や自由主義を標榜しているなら、それは詐欺であるか、よほど愚昧であるか、はたまたよほど無力であるかのどれかである。

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2006年6月26日 (月)

いぬのムーバウ

いぬのムーバウ いいねいいね 高畠那生
講談社 2004

 なんか、まったりした犬。味わいがある。味わい深く読みたい。あまりにあっさりしてたり、はきはきしすぎている読み方だとかえって味わいが出ないかもしれない。

 読み方にめりはりをつければ、結構幅広い年齢の子どもに受ける。あまり小さすぎる子どもは意味がわからないかもしれないが、なんだこりゃという面白さを伝えることはできるかもしれない。

 というより、高学年でも楽しんでくれそうな気がしたので挙げます。

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2006年6月23日 (金)

資格や免許のあり方

 爆笑問題の太田総理の番組で、医師免許を更新制にしたらどうかという話があった。私は、基本的には賛成だが、反対でもあるという奇妙な立場である。というよりも、単なる、更新制では甘いと思っているのである。
 自動車の免許のようなものだったら、更新制でいいけれど、学校の先生だの、医者だの、そして司書も、何年もやっていたら、「レベルアップ」してもらわないと困るのである。
 新しい知識や技術をフォローアップする、それから、さらに専門を深める、また、第2の専門を持っていく、専門ではないが、関連する領域についても知識や技術を持っていく、サービスやマネジメントの知識や技術も持っていく、そういうふうにして、レベルアップしていくことが必要なのである。
 たとえば、今の医師についてだったら、専門医だとかそういうったもののシステムをより充実していくのをとりあえずやってほしい。
 そして、なによりも、私としては、意味のない「競争」を持ち込むのではなく、むしろ、専門家が共同して全体のレベルアップを図り、協力してチームやネットワークで仕事をしてほしいということなのである。変な人に当たっちゃって貧乏くじをひいたとかそういうことでなく、1人の顧客に何人もで当たって、問題解決してほしいのである。
 学校でも、最近、多少、チーム・ティーチングとか導入されるようになった。今後は、さらに進んで、司書と教員でプロジェクトを組むようなことも必要だと思う。だいたい、そういうことがなければ、総合的な学習などうまくいくはずがないのだ。
 医療関係にもそういうことを求めたい。だから、違う専門の医者どうしで協力するだけでなく、違う病院でもネットワークを組み、さらに、看護だとかリハビリだとか、薬剤師だとか栄養士だとか保健師だとか、ケアマネジャーだとか、まあ、いろいろ、共有のプロジェクトを組んでほしいのである。もちろん、今も、いろいろと連絡を取ってくれているのはわかっているが、1人の対象には、情報を完全共有できるようなプロジェクトをつくってほしい。
 専門家の真骨頂は専門馬鹿ではなく、本来、他の異なる専門家と協力して仕事ができるということである。ここらへんをわかっていない人が多い。
 司書についても、こういう視点で、専門性を考えないといけない。

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2006年6月12日 (月)

愛国心は人身御供の思想

 私はかつて、中南米の古代文明にとても関心があった。図書館関係以外で受験したのは、みんな史学科である。受かったところもある。
 それで、マヤ人とかアステカ人が、キリスト教に結構ころっと変わってしまう理由として大きいのが人身御供である。
 もちろん、内部の部族間の対立が大きく、それがスペイン人の介入をもたらしたのだが、実は、彼らの宗教の人身御供に彼ら自身がどうもうんざりしていたようなのである。
 ものの本によっては、彼らはいけにえ獲得のために部族間戦争をしていたというように書いてある本もある。
 しかし、私は、本当はこれは逆なのだと思う。
 つまり、戦争とは人身御供、いけにえの儀式なのである。神や支配者のための。こう考えた方がわかりやすいでしょ。
 愛国心=やくざの仁義=人身御供、一脈通じるところがあるでしょう。旧約聖書のイサアクの犠牲の話を思い出してごらん。

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