« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »

2006年5月31日 (水)

相談デスクがある場合は積極的に利用しよう

 図書館で相談デスク(相談カウンター)をちゃんと置いてあるところは少ない。なお、これは名称はいろいろだが、要するに、貸出・返却じゃないこと(利用者の問い合わせに答えたりする)を行うデスクまたはカウンターである。
 この少ないデスクがある場合には、疑問点は積極的にきいた方がいい。本だなに本を返している人にきいたところで、そういう人たちは、アルバイトやパート、ときによってはボランティアなどである場合も多い。
 なんとなくかしこまったところで尋ねるのはいやだという人も結構いるようだが、それは、とても損な話だ。税金を払っているのだから、用意されているサービスはどんどん利用すべきだ。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月29日 (月)

図書館ではあまり買わない本

図書館であまり買わない本、ほとんど買わない本というのは相場が決まっている。

1 エロ本
2 写真集
3 漫画
4 問題集
5 参考書
6 値段の高い本
7 専門書

 1は、私も買わなくていいと思っている。税金を投じて、エロ本を買うなどもったいない。ただし、浮世絵の多くもかつてはエロ本だったことをお忘れなく。価値がまったくないというわけではない。

 2から7は私は大いに疑義がある。とくに、6と7である。値段が高いからこそ図書館で買うべきだし、専門書だからこそ図書館で買うべきだと思う。

 しかし、図書館でこういう本を買いたがらない同僚の意見も多少わかる。たまたまこういう本を買っても、実に借りられないのだ。ここらへんは利用者の見識にかかっている。

 2の写真集は1とだぶる部分はいらない。あと、アイドルのものとかもいらない。しかし、こういうのをしょうもない中高生がリクエストしてくる。いかにも暑苦しいしょうもない人が・・・。
 テーマものの写真集はぜひ買いたい。なぜかというと、○○の写真の載っている本ありませんか、ということをよく聞かれるからだ。写真集というのは、芸術という側面だけでなく、レファレンス・サービスにとってもとても重要なのだ。

 3の漫画はすでにけっこう買っている図書館も少なくない。これについては、あえて一考必要と考えるので、ここでははずす。

 4、5は本当は役に立つ本なのだが、なにせ、毎年のようにざくざくと発行されるので、図書館では買いきれないというのが本音。それと、書き込まれる、返さない、盗まれるといった被害にあうことの多い本でもある。
 なんでも買う必要はないと思うものの、どう扱うかは、一度、真剣に考えるべきだと思う。ニートだとか、フリーターだとか言う人たちのことを考えると、ある種の資格などは複数取得してもらうべきだし、学校へ行き損ねている人のことを考えると、中学・高校の参考書も必要かと思う。これらを一人で買いそろえるとなると結構な金額になる。貧乏な人だときついと思う。

 貧乏だが学習意欲のある人を支援できない公共図書館など、その存在意義を疑われると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月25日 (木)

子どもの本の選び方

 私は、当然、子どもの時から本が好きだったから、図書館の司書なんかになっている。本を読むことのメリットは、何と言っても、考える人間になることである。本を読むという行為は、ただ単に文字面を追っているのではなく、言語を通じて考えているということなのである。逆に言うと、何かの病気で考えることのできなくなった人は、本を読むことができない。
 子どもの本について解説した本は山ほどある。また、図書館では、子どもの本を紹介したリストをつくったり、展示をしたりしていることもある。こういうものを見て選んでもよいのだが、ずばり、あまり、そういうのに頼りすぎないで、自分が好きな本を子どもに薦めてみるといい。ただし、強制してはいけない。
 それから、子どもが自分で選んだ本を、やさしすぎるとか難しすぎるとか、あまり言わない方がいい。子どもは、気に入れば、何度も同じ本を読むから、難しくても、そのうちわかる場合がある。また、やさしすぎるように見える本でも、年齢に応じて感じとっているものは違うし、読書を通して考えていることは違うから、あまり、こだわる必要はない。
 何才までに読まなきゃいけない本なんていうリストを作って、課題をこなすかのように読ませるなんていうのは愚の骨頂である。こんなことは、ぜひ、しないでいただきたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月23日 (火)

読み方注意

 日本語は読み方がいろいろあるので難しい。退職して閑なので、視覚障害者のための朗読・音訳ボランティアをしようと思って電話をかけてくる方がいらっしゃるが、中には、どうも考えが甘すぎる方もいる。ただ読むだけだから簡単だと思っているのだが、そうではない。
 アナウンサーのように読むのは難しいとか、そういう話ではない。だいたい、視覚障害者のための朗読・音訳ではそこまでのレベルは要求しない。
 普通に何と読むのか知るのが大変ということである。それを調べるのにかなりのツールに関する知識と労力が必要なのである。例えば、地名で「本町」とあるが、これだって、「ホンチョウ」「ホンマチ」「モトマチ」と少なくとも3通りの読み方がある(「モトチョウ」とは読まなさそう)。

 検索をするときも、読み方注意である。図書館の目録では、「私」は「ワタシ」と本に振り仮名でもふっていないかぎりは、「ワタクシ」と読むのを原則としている。「日本」は「ニッポン」ではなく、「ニホン」と読んでいる。ただし、政府は「日本国」を「ニッポンコク」と読み、ローマ字では、NIPPONと書くことにしています。

 「世論」というのも、今は、「セロン」と読む人が多いが、本当は、「ヨロン」である。もともとは、「與論」と書いた。今の漢字にすると、「与論島」の「与論」である。

 自分で思っている読み方で出てこない時は、他の読み方でも検索してみよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月22日 (月)

資料はより特定される方に分類される

 図書館の分類は、おおまかなものは覚えていた方が便利だ。
 だいたい、3桁から4桁の番号がつけられていると思うが、上から10区分ずつ展開されているだけの話である。
 例えば、文化人類学は389だが、3は社会科学、38は民俗、それで、大きく民俗などに分類される38の最後に389として文化人類学が設定されている。

最初の桁は、次のようになっている。
0 総記・情報科学・・・総合的なもの、他に分類されないもの
1 哲学・宗教
2 歴史
3 社会科学
4 自然科学・医学
5 工学・家庭
6 産業
7 芸術
8 語学
9 文学

 それで、当然のことながら、ぴったり分類できないものもある。たとえば、経済の歴史など。こういうものは、普通は、経済の方に分類される。つまり、1桁目は2ではなく、3の社会科学の方に分類される。33が経済なので、そちらの方に分類される。より、特定される方に分類するのが原則なのである。なんでも、歴史の本は歴史に分類すると、歴史のボリュームがやたらと大きくなりすぎてしまう。もっとも、政治の歴史は政治に分類するのだが、一般に、歴史といわれる本は、政治史が多くをしめているので、厳密に言うことは難しい。いろいろと主題がまたがっている場合は、もうひとつの方も見るようにするといい。ただ、あまり、うろうろするより、図書館の司書にきいた方がはやい。もっとも、司書のいない図書館も多いし、役所との人事異動も結構あるから、自分がよく行く図書館では、どの人がちゃんと答えられるのか確かめておいた方がよい。
 まあ、率直に言って、これもあきらめざるをえない悲惨な図書館も多いのだが、これは図書館のせいではなく、そこの自治体の人事政策のせいである。こういう場合は、苦情というより、自治体にきちんと要望を市民として出していこう。市民の声がなければ、自治体は変わらない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月21日 (日)

図書館で資料を検索するときは助詞に注意

 図書館の資料を検索するとき、今は、ほとんどコンピュータで検索できる。その場合の、共通の注意がある。

1 一般的には「ひらがな」で検索するのではなく、「カタカナ」で検索する。
2 漢字仮名混じりでも検索できるのが一般的だが、本の表記どおりでない場合がある。
3 数字やローマ字もカタカナにした方が検索できる。
4 カタカナで検索するとき、助詞は発音どおりに入力する。

2については、例えば、旧漢字を使っている場合、新漢字に直されている場合がある。現在の目録では、旧漢字でもそのまま使うことになっているので、逆の注意も必要である。

3についてはコンピュータのソフトの名称などもカタカナにしてしまった方が検索できる。数字はあくまで、イチ、ニ、サンという日本語としての読み方が基本なので要注意。「キュウ」が「ク」となっている場合があるので注意。a,b,cもエイ、ビー、シーと読んでいる。うまく検索できない場合は、ここらへんを変えてみて。

4については、変だと言われるが、「東京へ」とか言う場合の「へ」は「エ」、「日本を」とか言う場合の「を」は「オ」とするということである。こういう仮名遣いが決まる前に、図書館の目録の規則の基本が成立したからである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月19日 (金)

愛国心以前に日本語と方言・民族語の教育を

 民主党の教育基本法案の中に出てくる「涵養」という言葉の意味が、わからない人がいるそうである。やさしい言葉とは言えないが、かと言って、そんなに難しい言葉だとも思わない。少なくとも、大人だったら知っていていい。
 外国人でなければ、このくらいのことばはどんどん教えるべきだ。愛国心なんていう曖昧なものよりも、こちらの方が大切だ。心を直接教えるというのは、とても難しいのである。しかし、言葉は心から生じ、教えたり、伝えたり、記録したりすることが可能なものである。だから、言葉は大事なのだ。命そのものの尊厳を教えるのも意外と難しいが、命があるから心があり、心があるから言葉があるので、心をこめて言葉を尽くせば、そのような難しいものでも伝えることができる。これが、言葉の力だと思う。
 言葉の力は大切だ。これが結局、平和への力であり、知識の扉である。結局、言葉によって知るのである。図書館の職員として、言葉の塊である本を扱っているから、なおさら、そう思う。
 だから、教育では全力を尽くして言葉を教えるべきではないか。数学や理科だって、結局、ことばの理解が中途半端な人にはわからない。外国語も母国語の理解が中途半端な人には、「大人としての社会生活」に必要なことはわからない。辞書をひいたところで、そこに書かれている母国語の意味をはっきり把握できないからだ。
 たとえば、「基準」という言葉と、「規準」というよく似た言葉がある。前者は英語で言えば、スタンダード、つまり、標準に近いニュアンスがある。日本語の場合だと、これくらいは満たしていないとという基となる水準ということになる。標準と言っても、最低基準に近い。最低基準という言葉はあっても、最高基準という言葉はない。この場合、最高水準というような言葉になる。
 規準の方は、英語で言うと、クライテリアで、これはもともとギリシャ語である。分類学にタクソンとクライテリアというものがある。タクソンは分類の体系そのものである。タクソノミーという言葉もある。クライテリアは、どこに分類するか、その判断の規準である。規準とはこういう場合に使われる。だから、図書館でも、「選定基準」と書かれることの方が多いようだが、厳密に使い分けているところでは、「選定規準」と書かれているようである。似たような言葉でも、「選定方針」とか「収集方針」などがある。似ているけれども、大きな違いがある。こういうことをちゃんと考えることが大事なのだ。ことばは行動のプログラムのような機能も持っているからだ。
 日本語、アイヌ語(日本語とはまったく別)、各地の方言、琉球語(一応、日本語の一種)、こういったものをちゃんと教える(伝える)ことが、まず大事だと思う。そして、母語であっても、いわば「単語」の学習をして、似ている言葉が、実はどのように違うのか正確に知ることが必要だと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月18日 (木)

探し物のコツ

 なくしちゃうととても困るものが見当たらなくなった。それで非常に困って、なにげなく、「探し物のコツ」と検索してみたら、「絶対にそこにはないと思われているものは、たぶんそこにある。」というポランスキーの法則とやらが紹介されていた。
 これは、なくしものだけでなく、情報や資料を検索しているときにもよくあることで、ああと後悔したことが何度もある。
 で、落ちついて、昨日も探したけどなかったところをもう一度見てみた。もう見たのだからないかもしれないが、そこに置いてあった本をぱらぱらとめくってみた。
 なんとその本の間に、探し物ははさまっていた。自分ではさんだ記憶はなくなっていたが、自然にはさまれるのも変な話だ。ぱらぱらと見た記憶はあるから、その時、無意識的にはさんでしまったのだろう。

 この法則、肝に銘じて覚えておこう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月16日 (火)

愛国心の背景

 愛国心の背景には、次に憲法を改正して、自衛軍だか国軍だかが、アメリカなどと共同行動して戦争に行けるようにするということがあるのだろうけど、具体的にはどこへ行くのやら。イランやシリアにでも行くのだろうか。どちらにしろ、また、アメリカの下請産業だね。
 でもイランなんかと戦争したらまずいだろう、日本は。アメリカみたいに石油が出るわけじゃないし。
 中国に関してだって、日本が中国と戦争しちゃまずいだろう。また、景気が悪くなってしまう。台湾海峡に緊張があるのは事実だが、中国独特のわけのわからない方法で済んでしまうよ。大陸と台湾で軍事衝突は起きないよ。後々、得にならないことをお互い知っているから。損得にはうるさいんだから、中国人は。
 北朝鮮についても、日本と軍事衝突したいなどと思っているわけないのだ。だから、拉致などというせこくて卑怯なことをやってきたのだから。拉致問題の解決に米国は本腰は上げない。残念ながら。協議を何カ国でやろうと、具体的なところでは中国・ロシア・韓国を動かすしかない。とくに中国。
 中国や韓国が嫌いな人の理由では、もっともなところもあり、一定、理解するけれど、ここで、わざわざ嫌がることをするのは、まったく、何のためにもならない。
 だいたい、中国と日本が国交を回復できたこと自体がすごいことなのであり、もともと、日中戦争や太平洋戦争について、軍部が独走して行ったことだから、当時の日本「国民」もむしろ被害者だったということで、国交回復直後からしばらくは中国の国民にも教育していたから(というより納得させていたから)実利を取れたのだ。あとは、周恩来という人物がいたからだ。はっきり言って、毛沢東だけだったら、とてもありえない話だっただろう。田中角栄だって人物なのである。中国で田中角栄を悪く言う人はいない。
 中国はどう転んでも、日本の首相の靖国神社の公式参拝を「いいです」とは言えないし、また、自国の国民感情があるから、非難せざるを得ない。中国に侵略した日本の軍部を崇拝するのかという話になるから。死者に善人も悪人もないなどという日本的な感覚は通用しない。まあ、無理して言い訳するなら、祟られないように鎮めているとでも言うしかない。首相も遺族会とかそういうところの圧力があるのだろうか。新しい追悼施設をつくるか、A級戦犯の分祀をするかしかないだろう。
 日本人も、こういう歴史上、大事な時期に、また、国際感覚欠如の田舎っぺみたいな判断をすると、のちのち、大損する。そういう意味じゃ、そんな馬鹿正直でなくていいから、もうちょっとずるがしこい外国人に倣った方がよい。はっきり言って、妥協だが。妥協できなければ生存できない。
 日本の人は、ある意味、右も左もピュアだが、その純粋さが仇になっている。
 最近、利用者を見てても感じるのだが、親の世代がもうすでに直接、戦争を体験したことのない人が増えてきており、はなはだ感覚がヴァーチャルだったり、理屈だけだったりするなあということである。
 戦争は理屈じゃない。国際法だの国家戦略だのいろいろ言うけど、実態は、ただ悲惨なだけだ。イラクを見りゃわかるじゃないか。昔はともかく、ベトナム戦争以後あたりで、戦争でうまく行った国なんてあるのかねえ? フォークランドの時のイギリスくらいか?
 戦争なんて言い出す前に、しっかり情報分析やった方がいい。外国の公にされている情報や資料を比較・綜合するだけで意外なことがわかる。007みたいなことをやる前に、ただの図書館屋みたいなことをするだけでも、結構、わかることはあるのだ。多くの資料・情報を綜合し、マトリックスをつくると、必ず空いている部分が出てくる。そこを推論するのは、いわば、ウインドウズについてくるマインスイーパというゲームをやるようなものなのだ。そういう地道なことを先にやりなさい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月13日 (土)

民主党の日本国教育基本法案

 民主党のホームページに日本国教育基本法案がアップされている。いわゆる愛国心をめぐるところが報道の中心になっているが、それより、非常に気になるところがあった。
 それは、第17条と第18条である。
 第17条には、いわゆる「有害」情報が取り扱われている。何で、こんな軽率で危険な条項を採り入れたのだろうか? 率直に言って、情報に有害無害があるのだろうか? こんな検証がまったく不十分なものは載せない方がよい。こんな中途半端なものは、情報統制への道を開く。かなり危険なものだ。
 それから、第18条だと、教育行政について、地方公共団体の長が直接、責任を負うように書いてあり、教育委員会はどこへ行っちゃったんだろうという感じである。もう、教育委員会なんてなくてよいということなんだろうか? これも、相当、危険だ。教育委員会という合議制の行政委員会が教育行政の意思決定をするという、教育行政の独立性はどこへ行ってしまうのだろう?
 この2点はゆゆしき問題だ。その他の点は、案外、いいんじゃないかと思っていただけに、民主党という政党が一体何なのか、非常にわからなくなってきた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

あまり日本だとか我が国を強調すると

どこかの国とそっくりになってきてしまう。
 本来、教育は、その国固有のものと言うより、もっと普遍的なものだ。日本の数学とか、日本の英語とか、日本の経済学とか、そういうものがあるわけではない。
 日本の国語や日本の歴史はどうかと言う人もいるだろうが、学習のアプローチはまったく違うにしても、日本語や日本史が世界の他の地域に行けば変わってしまうというものでもないし、変わってしまっても困るのである。この辺については、むしろ、日本はもっと関心を持って、テキトーなことを教えられないように、教材なり人材なりの派遣をすべきだと思う。日本も落ちぶれちゃったので、かつてほど、外国で日本語教育が盛んだとは思わないが、一方で、その分、落ち着いて取り組まれているところもあると思う。そういうところでは、日本語の教育とともに、日本文化や日本の歴史も教育していくとよいと思う。
 日本語や日本史を日本人だけが勉強していればいいような偏狭な考えになると、自惚れだけの発達した民族になってしまう。世界にこれだけ影響力のある国になったのだから、他の国でも日本語や日本史もしっかり教育してもらってよいと思うのである。そこらへんのことをもっと考えるべきだと思う。
 以前、私がスウェーデンに行ったとき、日本で言うと小学生くらいの生徒(スウェーデンは小学校から高校程度の年齢まで一緒のような学校で通して何年生という)が学校図書館の横っちょで勉強しているのを見た。みんないろいろな本を見ながら勉強していたが、その中の本で日本の渋谷のハチ公前交差点の写真が載っているものがあった。しかし、その写真はどう見ても古かった。こういうのはどうにかした方がよい(翻って考えると、日本の図書館にある外国関係の本やその中身も古い)。
 現在は、インターネットが普及しているのだから、教材を各国語でウェブサイトで用意すればいいだけの話(といっても大変だが)だけだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月12日 (金)

民主党の教育基本法改正案

 民主党が独自の教育基本法案をつくることを決めて、愛国心という表現は使わずに、「日本を愛する心」という表現を前文に盛り込むことにしたらしい。
 意味は同じだ。やっぱり反対する人もいるだろう。
 しかし、私は、まあ妥協できる範囲かもしれないと思っている。

 日本の法律も今後、英訳を用意していくらしいが、愛国心とか国を愛する態度だとかだと、どうしても、nationだのpatriotという関係の言葉になってしうまうような気がするのだが、「国」と言わずに、「日本」というだけで、こういう「きなくさい」言葉はとりあえずなくなる。

 まあ、それでも、「愛する心」って英語で何て言うのだと思うけれど・・・。

 「愛」という字の中にも、意味の中にも、「心」はすでに入っているからなあ。日本語としても、すでにおかしいのだと思う。せいぜい「日本への愛」ということになると思うが、これも、変だ。結局、「愛」という言葉を使うのがとても変なのだ。「日本の伝統や文化を尊ぶ態度」とか「日本文化への敬意」とか、そういうのだったら、とてもわかりやすいのだけれども・・・。

 なんか、聖徳太子の「和をもって尊しとなし・・・」の十七条の憲法の方がよほどいいものに見えてきた。現代風に言うと、「平和と協調を尊ぶ」ということだろう。これこそが本来の日本の姿だと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月11日 (木)

愛国心をなぜ私は警戒するのか

 何度も述べているが、私自身は愛国心そのものは否定しない。自分自身はむしろある方なのではないかと思うこともある。子どものころ、テレビを見てはじめて米軍基地が日本にあるのを知ったとき、なんで日本なのに外国の軍隊がいるのだと泣き出したりした。父親は、日本はアメリカに負けちゃったんだから仕方がないじゃないかと言った。それから、特攻隊が敵艦に突っ込む前に無残に撃ち落とされてしまうフィルムを見て、また非常に衝撃を受けた。そして、この時、父が予科練に行ったことをはじめて知った。
 自分や自分の国がどこの国にも従属せず、「自由」で「独立」しており、自分たちのことは自分たちで決める=「自治」が成立している、これが、私の子どものころからの「自分の国」の観念である。そして、そういう国であってほしいと思っている。これを愛国心と呼ぶべきかどうかはわからない。しかし、みんなが言っている「ふるさと」がどうとかこうとか言う曖昧なものではない。国民の自由と独立、そして自治(これが国家という政府機構の根拠)、これがすべてである。そういう意味では、私は我が国の自由と独立、及び、自治を希求していると言える。こういう事なら、むしろ書いて欲しい。
 愛国心、愛国心といいながら、国民の自由を奪ったり、また、集団的自衛権の名のもとに、アメリカのような大国に従属し、その下請けをしたり、金まで貢いだりというのが許せないのである。
 だったら、自衛軍は肯定するのか、これは、なかなか難しい問題で、子どものときからさんざん考えたが、子どものときの父との対話でひとつわかったことがあった。どんなに軍隊で勇ましいことを言っていても、負けるときは負ける。そして、日本は実際、原子爆弾という9.11どころじゃない、アメリカという国家ぐるみの世界史上まれにみる大犯罪の被害者となった。軍隊は国民を守れることを保障できないのである。もし、それができるとしたら、アメリカや旧ソ連のような世界史上名だたる侵略者となって、いわゆる「最強」になった場合だけである。ただし、この場合は、自国民以外は地獄の底へ突き落とす。そして、大日本帝国は最強になろうとして、見事に失敗し、大日本帝国臣民は地獄の底へ突き落とされた。天皇の玉音放送は、天皇でない人が書いたにせよ、天皇の思いは入っている。無条件降伏という、情けないことこの上ない最期だが、それでも、そうしないと、日本民族そのものが滅ぼされてしまうところだったのである。日本を焼け野原にした空爆を見れば、あのまま戦争を続行していれば、連合国は必ず日本人そのものを滅ぼしたと思う。世界史上には徹底抗戦して滅ぼされた民族はたくさんある。戦争というのは、そういうことを平気でやる。立派な愛国心はあったかもしれないが、民族そのものやその文化は滅ぼされてしまったのである。民族の伝統や文化を愛するなら、むしろ、戦争なぞせずにとっとと降参してしまった方が得策だという場合もある。実際、そうやって生き長らえてきた国もある。私は、日本の伝統や文化や自然を本当に大切なものだと思うのなら、むしろ勇ましいことを言うよりも、柔軟に、しかし、決してどこにも服従しないということの方が大事だと思う。自由や自治を失ってまで、国家を語ったら、その時から、その国家は国民から乖離している。そういう国民を分断する愛国心(「非国民」をわざわざつくり出す「愛国心」)を、私は、むしろ、日本の文化や伝統を守り継承し残していく立場から警戒する。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年5月10日 (水)

愛国心周辺 自民党憲法改正案も見てみる

 教育基本法改正は、憲法改正の布石として行なわれる。
 現行教育基本法も、現行憲法より前に制定され、いわば、現行憲法の布石であった。

 教育というのは国家の成り立ちの根幹に関わるからである。

 さて、自民党の憲法改正案を見てみると、その前文に、「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し、自由かつ公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り、教育の振興と文化の創造及び地方自治の発展を重視する。」とある。

 「責務」と書いてあるけれど、これは、責任と義務ということであろう。国民に愛国心による国防義務を課しているようなものである。だから、教育で愛国心教育が必要なのであろう。それで、この文章だと、「自由」より先立って、国防義務が書かれている。単なる順番の問題だから、どっちが優先ということはないという人もいるかもしれないが、いわば、前提として国防義務が書かれているのである。ここまで書けば、あえて徴兵制にしなくても、国家総動員できるし、また、徴兵制にすることについても憲法に根拠を有することにできるだろう。

 ささいなことと思う人がいるかもしれないが、そうでもない。例えば、次の2つの文章を考えてみてほしい。

1 彼女は妊娠し、結婚した。
2 彼女は結婚し、妊娠した。

 1は誰が読んだって、「できちゃった婚」だと思うだろう。2は結婚後、妊娠したのだと思うだろう。ただ、「し」という言葉でつないでいるだけで、こんなに意味が変わるのである。自民党の改正案の前文も「共有し」と「し」でつないでいるのである。

 ここらへん、言語学的意味論的に詳しく知りたい方は、下記の本の3ページを見てください。

意味分析の新展開 児玉徳美著 開拓社 2004.10 ISBN4-7589-1808-2

 憲法改正には、国民投票が必要だが、それが絶対必要とはされていない教育基本法で改正憲法の先取りをしているのである。愛国心なんて普通のことだから、目くじら立てることはないではないかと呑気に構えていても、憲法が改正されると、この国防義務の基礎となっている愛国心を教育しなきゃならなくなるのである。

 これについても、教育基本法改正案で愛国心を教育しなければいけないなんて書いていないなんて考えるのは甘いのである。なぜなら、今度の教育基本法改正案では、法令に基づいていろいろと教育をコントロールできるのである。別な法令で愛国心を教育しなければならないというのをつくったところで、教育基本法改正案が通ってしまえば、そちらの方で、愛国心はむしろ奨励しているのだから、当然、合法となり、憲法も改正されれば、それは、国防義務に向けたものとなる。

 下手すりゃ、とんでもないかもしれない。武器も与えられずに、竹やりで立ち向かえに近いことを言われるかもしれない。しかし、九十九里浜で米軍上陸を竹やりで迎え撃てなんて、心底、とんでもない国だったんだなあと思う。そんな愛国心で、民族が滅亡してしまったり、あるいは、民族の自立性がなくなってしまうんだったら、かえって、愛国心が外国に利用されてしまうってもんだ。とくに、集団的自衛権なんて言い出したら。受託会社の愛社精神なんて委託側に翻弄されるんだもんね。

 私は、司書ですから、愛国心を否定する本は有害図書として処分しますなんてことは、断じていたしません(肯定する本もしませんが)。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

重要法案の審議のあり方

 内容の問題だけでなく、教育基本法はじめ重要法案の審議の手続きについて、非常に疑いを持つ。教育基本法改正案についても、改正案文そのものについて知ったのは最近だし、それ以前に内容が示されていたとは言っても、いろいろ話題になっていた愛国心については、自民党と公明党でごそごそ決めたというふうに見えてしまう。
 何度も言うように、愛国心そのものを悪いとは思わないが、それを法定することについては意義よりも危険性の方を強く感じる。だいたい、国民に国を大切にする態度がなくなってきているとは思えないし、教育の問題は全然別なところにあると思うからだ。もし、卒業式での国旗・国歌のことを問題にしているなら、そちらの方が問題だと思う。
 これもまた、私は国旗も国歌も必要だとは思っているが、その決め方があまりにも強引でずさんであった。日の丸については、個人的には、それほどデザインがいいとは思わないのだけれど、まあ、場合によっては良くも見える。また、今、制定されている日の丸は従来のものと違って、丸が大きいので、梅干し弁当みたいな印象は受けない。ただ、一応、天皇はいるけど、大日本帝国とは違う国制にしたのだから、国旗は変えるべきだと思う。国歌についても同じ。君が代は、歌詞についてどのような解釈をしようとも、国歌としてそぐわないと思う。君を天皇などと考えると、今の時代にそぐわないし、単なる長寿を祝う歌なら、なんでそんなものが国歌なのかわからないし、音楽も雅楽調でいまひとつな感じがする。それから、歌詞のアクセントとうまく合っていない気がする。
 こういう形で決められた国旗・国歌を強制されるのはいかがと思う。これは、国旗・国歌にかこつけて、教育現場の自由を取ろうとしている気がする。愛国心にかこつけて自由が奪われるのはごめんである。なにしろ、日本は自由主義国家なのであって、そこが一番、大切なのだ。重要な法案を数が足りているからと言って、重要な疑義があるにも関わらず強引に通してしまおうというのは自由主義国家のすべきことではない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月 8日 (月)

ポンペイ展

 東急文化村の美術館で開催されているポンペイ展を見に行った。連休も終わったのと、天気が悪かったためか、思いの外、混んでいなくて良かった。
 犠牲になった人を型取りしたのは気持ち悪かったが、アポロの彫像だとかその他の彫像は、まるで、今、美術室に置いてあるものという感じだった。
 なんだかんだ言って、美人美男子の規準はギリシア・ローマにあるなあとあらためて感じるのだった。
 蛇の形の腕輪が流行っていたんだなあというのはわかったが、その蛇が結構リアルで気持ち悪い。腕輪と言っても、本物が巻きついているようにさえ見えただろう。なんか悪趣味だと思う。
 ところで、壁の絵など赤い色を大胆に使っている。昔の人は赤い色が好きなんだなあと本当に思う。私も最近、実は赤い色が好きだ。でも、今の人は青や緑が好きな人が多いだろう。木々や空などをあまり見ることができないからだと思う。昔の人は、そういう自然が身の回りに存在していたから、あえてつくったものにそういう色を使わなくて良かったのだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月 7日 (日)

愛国教育がなぜそれほど必要なのか

 自分の国を大切にする心なんていうのは、誰でも自然に持っている。持っていない人がいるとすれば、自分の国と認識できない人、つまり、外国人か、占領された地域の人である。
 だから、愛国態度、愛国心などを教育に盛り込むということは、はっきり、こちら方面への対策である。アイヌ、沖縄、在日ということになる。
 でも、アイヌにしろ沖縄にしろ独立運動なんかないから、そんなに敵視する必要はない。しかし、基地問題のようなものがあるから、住民は愛国心をもってそんなの我慢しろということになる。こういう国の利益が個人の利益より優先するんだという思想がひとつ大きな理由だろう。これは、極端なところまで行くと、個人の命よりも、国家の方が大事だということになる。香田さんのように国家に見捨てられる。香田さんは、自衛隊員でもないし、政府関係者でも公務員でもない民間人だ。民間人まで、特別権力関係に準ずるような扱いを受けるわけだ。自衛隊員や公務員だったら一種の殉職だが、それにもならない。
 在日攻撃は明らかだろう。これは言うまでもない。
 もうひとつは、結局、国民をある種のチームに例える考え方だ。これは、株式会社日本というより、徴兵制を導入するかどうかは別として、一種の国民皆兵の考え方だろう。国民皆兵だが、断じて国民軍ではない。だから、天皇は元首に復帰する。後方支援も含めて、日本全体が国軍化するのだ。ここには強制力が必要だ。その根拠が愛国心である。
 少子化を問題視するのは、この国軍兵士をどうやって調達するかという問題のためである。じいさんばあさんのことなんか本気で考えていない。また、経済の問題だって、すでに大いに空洞化しているし、消費マーケットの中国は伸びるし、儲けている人間にとって、実は問題ない。そこらへんの商店街にとっては問題だろうが、もう、こんなところは何も考えられていない。だいたいニートが山ほどいるのだから、労働力の心配なんてないのだ。日本なんかある意味、鎖国したってやっていける国家なのだ。
 それで、国軍と言ったって、これは、アメリカの下請け軍である。嫌な仕事をたくさんさせられるようになるだろう。六本木ヒルズに飛行機が突っ込む日も近いかもしれない。まあ、とにかくそんなダーティな仕事に強制力を持ってつかせるためには、愛国心という精神的拉致以外に方法がない。それを制度化するということによって、さまざまなシステムを構築しようとしているのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育問題を解決するには

 私は教師ではない。しかし、司書であるから、教育委員会の職員ではある。

 今回の教育基本法の改正案は教育問題を解決する、一番決め手となることを欠いている。

 教育問題を解決する一番の決め手は、図書館の問題を解決する一番の決め手と同じである。図書館の問題を解決する決め手は、図書館にまともな司書を置くことと、その司書の力量を高めること以外にない。

 教育問題を解決するには、教師の力量を高める他ないのである。教師の力量を高めるためには、現在のように教員の免許を簡単に与えすぎることに最大の問題がある。実際の教員採用試験に受かるのは難しいから、そこで淘汰されているという考えもあるかもしれないが、やはり、養成段階の問題が大きい。これは司書も同じである。

 教師は、自分の専門に関する知識と教育に関する専門的知識、さらに、課題解決の実行能力が求められる。そのためには、たとえ、小中学校の先生だろうと、自分の専門分野に関しては一人の学者であるべきだと思う。そういう意味で、小学校の先生に国語から算数まで何でもかんでも教えさせているのは変えるべきだと思う。それから教育に関する専門的知識についていえば、心理学などはもとより、いわゆる学習法とか教授法をもっと知っているべきだと思う。ここらへん、あまりにも芸のない先生が多すぎる。

 課題解決の実行能力、これは、社会人に普遍的に求められるものだが、先生というのは、そもそも課題を認識しているのだろうか? 先生の場合、課題は生徒と共有である。生徒と先生が同じ方向を向いて、協力して戦略を練り、実行・評価するというのでなければならない。これは、図書館の司書の場合もある意味、同じである。お客の求めている情報・資料を、専門的見地から助言しながら、協力して戦略を練って探索する必要があるのである。

 私が高校の時の数学の先生で、格別、教え方がうまいとも思えない人がいた。まだ若いせいか、生徒がからかったりすると、猛烈に怒ったりすることもあった。そんな、ちょっと子どもっぽいところがあったので、馬鹿にしている生徒も結構いたが、ひょんなことから、私も含め数人、その先生の家に行くことになった。先生の家へ行って驚いたのは、猛烈な量の数学の本があったことだ。本当に数学が好きでたくさん勉強していることがわかった。それまで、その先生のことを馬鹿にしていた生徒も、その時から、認識がはっきり変わった。私自身も、その先生のことを、教え方のテクニックとかそういうことを別にすれば尊敬するようになった。

 とにかく、教師は、一にも二にも、自分自身が勉強することだ。これ自体あやしい人が結構いる。なんでわかるかというと、満足に本の調べ方も知らない先生が結構いるからだ。これでは、生徒になめられても仕方がない。一度、生徒になめられたら、学級なんかあっという間に崩壊する。これはどんなに性格の良い先生でもだめだ。先生は先生であるからには、自分が教える内容については正確で新しい知識を持ち、きちんと説明できなければならない。まず、この根本条件を満たすための養成を行うべきである。

 これもある電車内で見たのであるが、どこかの工業高校か何かなのだろうか、ちょっとよたったような生徒がたくさん乗っていた。外国人が車内にいたので、ある生徒が先生とおぼしきしょぼくれた人に、英語で喋ってみろよみたいなことを言った。すると、その先生は、なんと逃げ出してしまったのだ。格好悪い。私は断言する。英語ができない人は、英語の先生などになるな。どんなよたった生徒だって、そういうところは見ているぞ。

 司書についてもそう思うのだが、教育関係の専門職は、みな大学院大学みたいなところを出ることを前提にしたらどうかと思う。ある専門分野を大学でやって、その上で、教育関係の専門職をやってみたいという人が、図書館大学院大学とか教育大学院大学とか学芸員大学院大学とかに行くという方がいいと思う。法律専門職については、法科大学院とかできてきているけれども、教育関係は極めてお寂しい。養成について、抜本的で本質的な改革はなされていないと思う。その辺の法改正や制度改革の方をばっちり行うべきである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月 6日 (土)

教育基本法改正、憲法改正、その先にあるもの

 教育基本法改正により、行政の教育への介入は法令(条例・規則も含む)により、どんどん可能になる。愛国心は明確な法的根拠を与えられて、教育されることとなる。そして、憲法改正により、天皇(男であれ女であれ)を元首とした国家で、国軍が設置される。
 戦前の話ではなく、今の話なんだから驚きである。
 自衛隊をどうしようとか、その海外派遣をどうしようとか、集団的自衛権をどうしようなんていう話ははるかに越えている。
 自分には関係ないなんて思っている人は大間違いだ。
 軍は武力を有する。それは、敵対国に向けられるだけではない。治安軍としての要素も持ってくる。構造改革による格差進行で本当に窮まった人たちが反旗を翻せば鎮圧されるだろう。もしかしたら、近い将来、そうなりかねないという雰囲気を、「あちら側」が感じているのかもしれない。まさに「官軍」の発想である。
 この国から自由がなくなる。
 東京に自由が丘というところがあるが、これは、もともと学校の名前から、住民が積極的に地名として使うようになり、さらに駅の名前までがそれに伴って変わったのだ。住民が自ら使い始めた地名なのである。もともとの地名は「谷畑」としょぼかった。駅の名前も当初「九品仏(くほんぶつ)」(現在の九品仏駅ができるに伴い駅名変更が必要になった)から「衾(ふすま)」と変わるところだったのが、「自由ヶ丘」(当初の表記)になったのだ。「自由」と「自治」とはセットであることを象徴しているようだ。
 この「自由ヶ丘」という地名は、当局から、変更するよう圧力がかかったことが何回かあったそうである。戦前戦中は自由主義はご法度だったのである。自由主義を共産主義より怖いと言っている者さえいたのである。(そういえば、「愛国心」というのは、共産主義者も案外、本来、好きである。ただし、これは、「国軍」でなくて、「国民軍」とか「開放軍」とか「革命軍」とかの場合。)
 愛国心の本質は、自由ではなく、国家を軸として生きるということである。だから、国家のためには、自分の思想・行動、さらには家族の行動、企業活動も、制約を受けるということなのである。要するに、愛国心は国家主義の核である。
 自分の国に愛着を持つのは当然である。しかし、愛着を持つものは他にもたくさんある。自由、家族、文化、仕事・・・。愛国心をことさら、基本法に明記するということは、それにある種、超越的な立場を与える。家族への愛と国への愛のどちらかを選ばなければならない状況になったら、国への愛を選択しなければならないのである。
 これは、国という形を通じて、支配をする「あちら側」の人々にとっては、税金という公金をそのまま自分のものとする以上に、国民を奴隷として使うのにまことに都合がよい。自由がないのだから、どんな暮らしをしていようと奴隷である。国の奴隷となること(特別権力関係?)を、国民は自ら選択するのだろうか。
 自由民主党なんて党名に「自由」が入っていながら、改正案に「自由を愛する態度」なんてとても書けないのだろうなあ。
 よくアメリカの愛国心を引き合いに出す人がいるが、アメリカの愛国心とは、まさに「自由を愛する心」のことなんですが、わかっているんでしょうか? だから、他国の圧政からの「解放」(?)のためにちょっかいを出し続けるんですよ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年5月 5日 (金)

全体を通しての問題点

 いわゆる愛国態度を教育することが入ったことに伴って、教育が自律的なものであると、そういうことが結局出来ない。それで、教育行政というより、行政そのものの介入できる余地がかなり広がっている(というか、明確な制限がつけられなくなった)。自律ではなく法令でコントロールするという路線になっている。この法令は、必ずしも教育関係のものだけではない。教育委員会の形骸化はさらに進むというか、なくそうと思っているんじゃないかと思う。
 こりゃ、結局、国民学校だ。
 今まで、インターナショナル・スクールに子どもをやる人を変な人だと思っていたが、今後はまじめな選択肢になりそうな気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

消えた条文

現行法第5条(男女共学)

 男女は、互いに敬重し、協力しあわなければならないものであって、教育上男女の共学は、認められなければならない。


関連:改正案第2条第3項(教育の目標のうちのひとつ)

 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。


何が違うか?

 似ているとは言っても、やっぱり全然違う。男女共学はとにかく条文からなくなった。今後、公立校でも男女共学でないところが出てくるかもしれない。

 ところで、私は、幼稚園は男女共学だが、圧倒的に女の子の多いところ、小学校は、男女別学だが、1学年3クラスで、2クラスが女の子というところ、中高は男子校、大学は、やはり図書館という専攻のせいか女性が多いところに行った。

 自身の経験から言うと、やっぱり、男女同じ比率くらいの方がいいように思う。何か変な風に偏っちゃうんだよなあ。職場の男女構成でもそうなんだが(さらに職場の場合、年齢層も適当にばらけている方が本当はいいと思う)。

 世の中全体では、おおむね男女比1:1なんだから、小さな社会でもそれに沿っている方が何かとお互いのためだと思う。やっぱり数の多い方の「文化」が集団を支配してしまうので、比が偏っていると変になっちゃうんだよね〜。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育基本法改正案 第18条

改正案第18条

 この法律に掲げる諸条項を実施するため、必要な法令が制定されなければならない


現行法第11条

 この法律に掲げる諸条項を実施するために必要がある場合には、適当な法令が制定されなければならない


何が違うか?

 ほとんど同じように見えて、結構、違う。現行法だと、必要なければ、いちいち法令などいらないというスタンスだ。教育というものの性質を考えるともっともに思う。ところが、改正案は、むしろ法令の制定に積極的である。教育そのものの自律にまかせずに、法令で制御していこうというふうに私には読める。法治国家とは言え、行きすぎに思う。
 図書館にひきつけて言っても、関係する法令は、現状ではそんなに多くない。しかし、図書館協会など、自主的な団体で作成した目標や基準、倫理綱領など、自律的なものが多数ある。資料の選定基準(規準、方針、ガイドライン)だって、べつに法令に根拠を直接有するというものでもない。これは、いわゆる法令ではないが、ある種の法規範ではある。こういう自主的・独立的コントロールが教育にとっては、もっとも大事であり、さらに、その中に、学習者が主体として入っていくということが、今後、より重要であると考えるので、どうも、なんか息苦しいなあと思うんである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育基本法改正案 第17条

改正案第17条(教育振興基本計画)


 政府は、教育の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、教育の振興に関する施策についての基本的な方針及び講ずべき施策その他必要な事項について、基本的な計画を定め、これを国会に報告するとともに、公表しなければならない。

2 地方公共団体は、前項の計画を参酌し、その地域の実情に応じ、当該地方公共団体における教育の振興のための施策に関する基本的な計画を定めるよう努めなければならない。


現行法・・・とくに該当なし


条項新設の意味

 教育について、政府や地方自治体が、振興という文言は入っているものの計画するということだ。計画する以上、一定のコントロールがないとは言えない。教育行政の役割は現行法では、あくまで条件整備であり、教育内容そのものの計画や実施は、学校等教育機関やその他の教育主体であるというのが現在のスタンスであると私は認識するが、それから一歩も二歩も教育行政が踏み出ている。しかも、ここまで書かれると、行政委員会たる教育委員会ってなに?と問いたくなる。国によっては、国家レベルでも教育委員会があるわけだが、このような条項新設は、まるで、自治体の教育委員会廃止を先取りしているかのようにさえ感じさせる。なんだかんだ言って、教育への行政のコントロールが示されているように思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育基本法改正案 第16条

改正案第16条(教育行政)

 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。

2 国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。

3 地方公共団体は、その地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならない。

4 国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない。


現行法第10条(教育行政)

 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。

2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。


何が違うか?

 一見、改正案は内容が膨らんだように見える。しかし、一番重要な教育行政の目標が明記されなくなった。それが、改正案では2項から4項までで展開されているということかもしれないが、「教育」と「教育行政」を明確に区別するためには、教育は国民に対し直接責任を負い、教育行政はそういう教育の条件整備を行うということが書かれていなくていいのかと思う。
 2と3の施策というものが、積極的なものなら歓迎だが、その逆もあるかもしれないというところが気になるなあ。要するに、教育現場の裁量や自由を縛っていってしまうなら、ずいぶん息苦しいものとなるだろう。法の支配をわざわざ書くのも、何やらきな臭い。「法の支配」でも、時と場合によっては、「不当な支配」になりうるけれど、並列されると同等に扱うということだもんね。「不当な支配」かどうかはわからないが、「法の支配」なんだとやられることもあるということだ。

 しかし・・・

 教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るなら、図書館現場で司書が減っていることや、自治体によってとんでもない格差があるのを上方是正してほしいもんだ。だいたい、これだけ合併が進んでも、なお、図書館がない自治体があるんだもんね。また、だだっぴろい自治体では、その部分によっては、えらい格差が生じている。これだけ自治体が広くなると、図書館は分館を設置したり、自動車図書館(移動図書館)を回したりというようなことは当然しなければならない、とどこかで言ってくれないとねえ・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育基本法改正案 第15条

改正案第15条(宗教教育)

 宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。

2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。


現行法第9条

 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。

2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。


何が違うか?

 宗教に関する一般的な教養を教育上尊重するということが加わった。これは私も賛成。ただ、現行法の解釈でも、一般教養として宗教について教育することは問題ないので(そうでなかったら、「倫理・社会」なんていう科目は成立しない)、このことのために法改正しなければならないというほどじゃない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育基本法改正案 第14条

改正案第14条(政治教育)

 良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならないこと。

2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。


現行法第8条(政治教育)

 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。

2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。


何が違うか?

 ほとんど同じ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育基本法改正案 第13条

改正案第13条(学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力)

 学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。


現行法・・・該当なし


条項新設の意味

 いわゆる「地域の教育力」だとか、そんな話なんだろう。今でもPTAがパトロールをやらされたり、いろいろ大変みたいだけど、もっとそういうのが増えるのかねえ。今度はパトロールしてるヤツがエロ事件起こしたり、殺人事件起こしたりしちゃったりして・・・。そこまで行かなくても、「しつけと思ってやった」の類が出てきそうな悪寒・・・。
 魔女狩り、親父狩りならぬ、不良青少年狩りが流行ったりして。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育基本法改正案 第12条

改正案第12条(社会教育)

 個人の要望や社会の要請にこたえ、社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。

2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館その他の社会教育施設の設置、学校の施設の利用、学習の機会及び情報の提供その他の適当な方法によって社会教育の振興に努めなければならない


現行法第7条(社会教育)

 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。

2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によって教育の目的の実現に努めなければならない


何が違うか?

 ここはいわば、私の専門分野みたいなもんだが、どうも大変重要なことを見落としていた。改正案第10条(家庭教育)で、現行法ではとくに該当するところなしとしてしまったが、現行法では、家庭教育は社会教育の一種として現行法第7条に書かれているのであった。「家庭」というのも小さな「社会」であるから、家庭教育も社会教育の一種であるわけだが、改正案が家庭教育を独立させたのは、それを重視しているというだけでなく、それに特別な意味をもたせているということもあるだろう。そのことの良し悪しは難しいが、家庭教育を特別視しすぎるのも、変な言い方をすれば、教育の責任を家庭に押っつけるようなところ(いわゆる「自己責任」)も出てくるので、思案のしどころだ。
 勤労の場所において行われる教育という明言がなくなっているのは、単なる文章表現上の問題なのだろうか。単なる研修ということでなく、勤労の場所で行われる「社会教育」というのは、本来、大きな意味を持つけれども、何かを排除しようとしているのか。これは考えすぎだろうか。勤労の場所で行われる社会教育は、必ずしも会社の方針に沿っていなければならないというようなことはないわけだけれども、会社の方針と合わない、反するものを排除しようとしているのだろうか。

 まあ、こんなことより一番、気になるのは、現行法では、社会教育によって教育の目的を実現するとはっきり言っているのに、ここでは単に社会教育を振興するという程度になってしまっていることだ。もっとも、改正案の教育の目的をブレイクダウンした教育の目標に例の「愛国態度」が入っているから、そんなものと無縁になれるという勝手な読み方をしておこう(そうは行かないが)。

 それにしても、社会教育は、教育基本法が改正されても、あいかわらず、振興程度なんだ。改正案第3条で、生涯学習理念を大きく謳っているわりには、バランスが取れない気がする。この理念の実現のためには、奨励・振興程度じゃ足りないと思う。
 委託や指定管理者によって行おうということからか、何か、自治体が直接行うものでもないような雰囲気を漂わせている。「振興」という言葉は、自ら行うものには言わないのではないだろうか。間違っても、学校教育の振興とは言わないだろう。ここまで生涯学習理念をぶちあげるなら、自治体が自ら責任を持って、社会教育を行うことが必要だ。まあ、もっとも、そんな責任を持たない方が、愛国態度教育からはフリーだとも言えるが、格付けがどーんと下がる。つまり、予算や人的資源の配分が減るということだ。そんなことはないよとはっきり言ってもらいたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月 4日 (木)

教育基本法改正案 第11条

改正案第11条(幼児期の教育)

 幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであることにかんがみ、国及び地方公共団体は、幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備その他適当な方法によって、その振興に努めなければならない。


現行法・・・とくに該当なし


条項新設の意味

 べつに間違ったことは書いていないけど、これを根拠に表現の自由の規制をしたりしないだろうなあ。当たり前のことでも、わざわざ法律に書くということは、何か意図がある。人格形成と言ったって、なにしろ愛国心込みの人格だからなあ。
 本気でここに書かれたことを実現する気があるなら、次のことを必ず実現してもらいたいもんだ。

1 身近に幼児が安心して遊べる場所を確保すること。
2 行きすぎた早期教育の害について普及・啓発すること。
3 早期教育の動機になっている小学校お受験が加熱しないように、国公立学校の教育の水準を上げること。
4 社会教育を充実し、社会人が大学や大学院の教育を受けやすくし、再教育(再学習)の機会を豊富に用意し、様々な資格を重視する。要するに、上流というか出口の方を機会豊富なものにすることによって、馬鹿馬鹿しい早期教育に国民が走らないようにして、情操豊かな幼児期を子どもが過ごせるようにすること。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育基本法改正案 第10条

改正案第10条(家庭教育)

 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。


現行法・・・とくに該当なし


条項新設の意味

 教育基本法ではないが、すでに、社会教育法の改正で、家庭教育は盛り込まれた。そのときの議論にもあったが、法が家庭にまで過剰に入ってくるのはどうかという意見があった。とくに権力を伴っているとなおさらである。教育だから、公権力の行使とは関係ないとまで楽観はできない。
 この条項に書いてあるのは、いかにも当たり前そうなことだが、ここでいう「教育」が教育基本法改正案全体を通しての教育であるなら、家庭教育においても愛国心教育が入ってくることになる。旗を掲げるくらいならいいけれども、憲法改正で設置される国軍に息子が行って何をするかという話になってくると不気味である。国際結婚の家庭で引き裂かれるようなことがまた起こるとしたら、歴史にまったく学んでいないと言えよう。
 それから、根本的な話だが、親となるのには資格試験があるわけでもなんでもなく、ひらたく言ってしまえば、生殖能力があれば誰でもなれてしまうわけだから、第一義的責任を有すると言ったところで、だからどうなるというものでもない。これは、逆に、どうしようもない親の被害を受けている子どもがいたとしても、仕方がないと言っているようなものである。こっちの方はむしろ行政はしっかり子どもの人権を守るべきである。まさか、東京都のように未成年セックス禁止令みたいなものを考えているんじゃないだろうなあ。そんなもの禁止したところで、まったく効果がない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

貸出しを増やせば役所は予算を増やすと思っているのーてんきな人々

 図書館が貸出しを増やせば、役所は予算を増やす。逆に言うと、予算を獲得するためには貸出しを増やせばよい。こう思っているのーてんきな人が結構いるらしい。

 お店じゃないんだから、貸出しを増やしたって収入は上がらないし、それどころか、コストがかかるばかりである。だから、役所はそんなことでは予算を増やしたりはしない。

 現に、私の勤務するところは、貸出しも予約もがんがん増えているのに予算削減された。しかし、人員削減や委託導入により人件費が削減されることとの見返りに、資料費は増やすべきだと、組合の方から意見を言ったら、資料費は増えた。こんなもんなんだよ。そのうちまた、資料費は減らされるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育基本法改正案 第9条

改正案第9条(教員)

 法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。

2 前項の教員については、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない。


現行法第6条第2項

 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。


何が違うか?

 「全体の奉仕者」という言葉がなくなっている。これは、公務員についても言われるのだが、何を意味するのだろうか。単純にわかりにくい言葉だから削ったというものでもないように思う。卒業式で君が代を歌わない教師などが問題視されているが、私は、この歌に対する評価がいろいろで、なおかつ、歌詞自体の意味を考えると、全体の奉仕者たる人間が歌うべきでないと考えるのには一定の理があると思う。私自身は国旗も国歌も必要だとは思っているが、それは、国民に分裂をもたらさない方法で決定されることが必要であり、なおかつ、旧大日本帝国との連続性のないものにすべきであると思っている。

 職務においては、特定の立場に立たないで、職務そのものの公正を期すということからすると、全体の奉仕者という文言を削除するのは気になる。そして、使命に「崇高な」といういかにも宗教的な形容詞がついているのもひっかかる。

 使命が、全体の奉仕者たるものから、崇高なものになっているわけだ。これは、「日本教」の教徒になれということなんだろうか? 愛国心を教えるわけだから、教師も愛国心に基づいて行動しろということなんだろう。

 しかし、愛国心はときに教え子を殺す。私の母が、戦時中に「忠君愛国」なんて言っていた先生が、よく、戦後は「今までのは間違いでした」なんて言って、先生続けていられたもんだなんて言っていたが、それ以上に、自分の教え子をたくさん戦死させたことを後悔している先生の手記をどこかで読んで心打たれたことを思い出す。

 なんだか、ますますアイヒマンみたいな先生や、サラリーマン教師を増やすことになりそうだ。サラリーマン教師であればあるほど、上が言っているんだから仕方がねえと思うだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育基本法改正案 第8条

改正案第8条(私立学校)

 私立学校の有する公の性質および学校教育において果たす重要な役割にかんがみ、国及び地方公共団体は、その自主性を尊重しつつ、助成その他の適当な方法によって私立学校教育の振興に努めなければならない。


現行法・・・該当とくになし


条項新設の意味

 基本法にまで書くのだから、私立学校重視の姿勢を明確にしたということは確かだ。相対的に公立学校軽視になるかどうかはわからないが、いわゆる「民営化」路線とだぶらせると、ちょっとイヤな匂いも感じないではない。

 いわく、本当のエリート大学は私立だ、だとか、エリート養成は私立が中心だとか。

 「公立ではろくなこと学べませんよ」なんていうことが、しっかり根づいてしまったらいやだなあ。

 そういう私自身は、幼稚園から高校まで私立で大学だけ国立、そして就職先が自治体なわけなんですが。一番ありがちな多くの人のパターン(保育園から高校まで公立、大学は私立、就職は民間企業)とは反対なんですね。

 なんでそうなったかというと、となりの女の子の行っている学校へ行きたいと言い出し、それがたまたま私立だったというだけの話なんですね。そして、私立学校の特徴だとは思いますが、いわゆる系列みたいなものがあり、○○小学校を出た人は○○中学へ行き、○○中学を出た人は○○高校へ行くという流れに乗っただけです。ただ、私の場合、中学・高校は一貫教育でした。大学は、親が「今まで金がかかったから、大学は国公立にしてくれ」と言ったのと、学校が入試の実績を上げたくて、国公立を積極的に受験させていたということからです。

 まあ、私学への助成っていうか、私学へ行きたい人への助成を考えた方がいいと思う。私立大学の方がいい分野というのは、確かにすでに存在しますからね。地方の人が東京の私立大学へ子どもをやるというのは大変だと思う。アルバイトさせればいいとは思うが、あまりアルバイトばかりでは勉強できないからね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月 3日 (水)

教育基本法改正案 第7条

改正案第7条(大学)

 大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする

2 大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならないこと。


現行法・・・とくに該当なし


何が違うか?

って、新設みたいな条項だから、比較しようがないかもしれないが、大学について教育基本法で定めているかいないかが基本的な違いか。

 定めるのが悪いとは言わないけれど、要は、「大学への成果主義の導入」と「産学協同」を明らかにしていることがどうかということだ。

 申しわけのように、大学の自治っぽいことも入れている。

 成果を出して社会に提供するのが大学と書いてあるから、成果を出せないかもしれない、社会(はっきり言えば、企業・産業)が欲しがっていないものは削られるかもしれない。成果主義も産学協同もむしろ賛成なのだが、これを全面的に押し出すのはどうかと思う。

 こんなこと研究してどうなるっていうの?っていうようなことまで研究するのが、むしろ大学の良さである。この場合、社会の方が大学より遅れているのである。大学というのは知の最先端であるべきだから、そんな、社会に従属したようなものではないのだ。これは、いわゆる「象牙の塔」とは全然、違う話である。

 「大学の自治」の源泉は、この「知の自由」「最先端の知」にあるのだから、何か順序が逆な気がする。社会に応用、さらに産業に応用できる部分など、広い広い知のほんの一部なのであって、そのほんの一部しか見なくなったら、知はやせ細る。知がやせ細ったら、収穫物も減っていくだろう。大学というのは、様々な知が結合して、大きなかたまりとして存在するところに意味がある。だからユニバーシティというのだ。知の宇宙なのである。知の宇宙を些細な研究機関に格下げするというのは、なんか、しみったれた話だ。こんな話は、個別の法律でごちゃごちゃ決めればいいだけだ。大学全体を安易に規定しない方がいい。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

教育基本法改正案 第6条

改正案第6条(学校教育)

 法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体および法律に定める法人のみが、これを設置することができる。

2 前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。


現行法第6条(学校教育)

 法律に定める学校は、公の性質をもつものであつて、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる。

2 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。


何が違うか?

 現行法第6条2項の教員については、改正案9条にくわしく展開されている。改正案第6条2項には、学ぶ側、生徒について書かれている(太字部分)。しかし、この意味はよくわからない。文章自体もそうだが、これを法律に書く意味もわからない。
 必要な規律を重んずるのは、学ぶ側だが、このことを、法律で学ぶ側に要求しているわけだ。これは異様である。必要な規律を決めるのは誰だかよくわからないし、何やら一方的な気がする。昔のように極端な校則が今でもあるのか知らないが、髪の毛がどうとか言うのは、私には、学習する上で必要な規律ではないように思う。授業中、私語や携帯電話は慎むなんていうのは必要な規律だが、髪の毛がどうとか靴がどうとか、こういうのは行き過ぎだと思うのだが、こう一方的に規律を重んじろと書くのだろうか。これは、校則に教育基本法によりじかに法的根拠を与えようと思っているんだろうか。なんか、強引というか、粗雑な感じがする。
 自ら進んで学習に取り組む意欲と言ったって、これだって、本人の問題なんだから、どうしようもないんじゃないだろうか? なにやら、これも、とても法律にはなじまない。
 要するに、言うこと聞かないやつ、勉強する気のないやつは学校に来るなということだろうか。なんかダメ教師の台詞をそのまま法律にしたみたいでみっともない。納得できない決まりには従えないし、つまらない授業やなんだかおかしな授業は聞く気にならないというのは常人でも思うことである。こういうことは、学ぶ側と教える側で決めていくことだと思う。義務教育であれば、なおさら、そうだ。義務教育でなければ、決まりに納得できなかったり、つまらなかったら、その授業は受けなければいいだけだから。しかし、義務教育でなくても、完全な選択科目で、まあ、取っても取らなくてもいい単位とかでなければ、この程度の配慮は、むしろ、教育者としてすべきである。学習者の成果があがることが目的なのだから。
 そもそも、学習するときの一定の約束だとか、学習意欲の問題は大事だが、法律に書くことじゃない。それぞれの具体的関係によって決まるものだと思う。たとえば、水着で授業を受けるなんていうのは、普通とんでもない話だが、外国の南の島の一部では、そういうこともあるようで、これはいちがいにダメと言っても仕方がない。義務教育で学習意欲を言っても、すべての科目についてこれを要求したって無理だろう。義務なんだから、意欲はなくても勉強しなきゃならないものもあるのだ。義務教育の場合は、あんまり意欲がなくても勉強させる、勉強してもらうようにするしかないのだ。だから、一定の規律が必要なのかもしれないが、規律だけでも解決できない。やる気はなくても必要なんだからということで勉強することは、生涯よくあることだが、規律で解決できるものではない。単純に言えば、我慢してやるしかないのである。しかし、我慢なんか法律に書く馬鹿はいない。この条項はくだらない。
 あまりにも箸にも棒にもかからない馬鹿者を想定しすぎて、一般人から見ても異様な内容になっている。教師臭さがぷんぷんして気持ち悪い。教育基本法は教師のためだけの法律ではないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »