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2006年4月29日 (土)

教育基本法改正案 第5条

改正案第5条(義務教育)

 国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。

2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。

3 国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。

4 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。


現行法第4条(義務教育)

国民は、その保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う。

2 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。


何が違うか?

 改正案の2項と3項が新たに加わった部分である。3項は地方分権を意識したものだと思う。2項は、例によって「国家」が登場する。国家の形成者ということは、結局、国民ということだと思うが、国民には資質が必要ということか。まあ、確かにそうかもしれない。しかし、非国民にされるのはまっぴらである。
 国民に一定の資質は必要かもしれないが、その義務とともに、権利についても十分に教育されないとバランスがとれない。国民の資質とは、この権利と義務の認識と理解である。国を愛する態度とかいう曖昧なものでは「足りない」。国を愛していても、権利意識が希薄だったり、義務について自覚がないような人(税金払わない右翼など)は国民としての資質に欠ける。今の義務教育では「公民」といったような中途半端な科目しかないけれども、ちゃんと、法律なども教えるようにするのだろうか? 法解釈など、やはり教えてもらわないとわからない。「公民」程度の教育では、自分の権利を守ることはとてもできない。裁判員制度のこともあるし、どうするのだろう? 少なくとも、こんなことを言うなら、私の商売の司書にからめて言うと、次のことを要求したい。

1 図書館には、法律の改正案とその趣旨についてまとめた資料を必ず送付すること。これは、事前に、国民自身が検討できるようにということである。国会議員は国民の代表だが、国民自体が改正案を知ることができることが必要だと思う。逆に言うと、国会議員や特定政党だけで、議案をごちゃごちゃつくって拙速に決めてくれるなということである。それが議会の権限だとは言っても、国民にも法律の改正案のように重要なものは知る権利があると思う。

2 図書館において、法律関係のデータベースを無料で利用できるようにすること。これは、判例・行政実例、そして、学説等の解釈についても検索できるようにする必要がある。

3 図書館の資料費を増やすこと。そうでないと、最近の朝令暮改の法律関係の本を十分に買うことができない。

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教育基本法改正案 第4条

改正案第4条(教育の機会均等)

 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。

2 国および地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。

3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。


現行法第3条(教育の機会均等)

 すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない。

2  国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によつて修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。


何が違うか?

 ここでは、いわゆる障害者について新たに加えられている。

 ところで、差別というものについて、私が一番感じるのは「年齢による差別」である。就職など「年齢制限」というものが厳然と存在する。これは、たしか撤廃の方向に行っていたと思うが(私の勘違いか?)。能力があるのに年齢によって差別されるのは、明らかに「不合理な差別」である。
 下の方の年齢制限について言うと、私は飛び級とかかまわないと思っているので、下の方の年齢制限も、「合理的な範囲」においてははずしていいと思う。子どもが大学生になっても馴染めないなどと言う人がいるが、そこまで頭のいい子どもの中には、小学校や中学校に行ってもなじめない人もいると思う。頭の良すぎる人には、結局、特別な教育をせざるを得ないと思う。いわゆるエリート教育とは別な視点で。
 まあ、年齢については、憲法だの教育基本法で書くのは難しいかもしれないが、他の法令を整備する必要があると思う。

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2006年4月28日 (金)

教育基本法改正案 第3条

えー、ちょっと注釈を入れます。現行法と改正案が一対一に対応するわけではないので、改正案の方の条文にそって、関連するものを比較していきます。


改正案第3条(生涯学習)

 国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。


現行法関連第7条(社会教育)

 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。

2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によって教育の目的の実現に努めなければならない。


何が違うか?

 現行法の関連として第7条をあげたが、改正案では、第12条に社会教育がある。本来、比較すべきは、この2つだろう。しかし、生涯学習は、「教育」というよりも、主体の方の視点を重視した「学習」で、学校教育も社会教育も併せ持った、あるいは、手段の1つとした生涯にわたるもの全体を指している。
 もともと、ジェルピという人が言い始めたらしい生涯教育という概念から来ているが、ひらたく言ってしまえば、教育は学校を出たらおしまいっていうことではないですよということである。しかし、こういう考えはもともとの教育基本法自体にすでにある。社会教育という言葉は日本独特の言葉で、外国では単に学校外教育というような言い方がされたりする。それと、学校自体が、いわゆる教育課程のみのものではないので、社会教育という言葉を使って区別することができないのである。日本でも、大学などでは公開講座なども定着してきた。生涯教育の視点が必要なのは間違いない。ただ、日本で、生涯教育でなく「生涯学習」になったいきさつは、主体に視点を置いたといういい意味ばかりでなく、教育行政の支援に頼るより、自分で勉強してくれ(とくにお金の面)という雰囲気が実はあったということも指摘しておく。この3条にその雰囲気が入っているかどうかはわからないが、生涯学習関連の法律が教育法体系に入るんだか入らないんだかよくわからない状態にあることを考えると、ここでこのように規定するとどうなるんだろうと考える。文化関係の法律(活字文化振興法だの読書活動推進法だの)まで視野に入れると実はもっとよくわからなくなる。これは、また子細に考えないとなおさらわからない。
 とりあえず、改正案第3条についてのみ言うと、「人格を「磨き」豊かな人生を送る」という意味が何かカルチャー・センターみたいだなという感じがする。もともと教育基本法で言っていた「人格の完成」という概念は多分に発達心理学的な感じがするが、「磨き」だと、それより後退している感じがする。エリクソンあたりの発達心理学の「人格形成」から、マズローあたりの生涯発達心理学の「自己実現」へシフトした考え方が「生涯教育」なんだから、「生涯学習」という言葉に後退的な意味を持たせないのであれば、この表現はかなり古臭いと言える。これは、時代に合ったものというよりも、現行法より後戻りだと思う。もっとも、「自己実現」という言葉が法律になじむかどうかは疑問だが、それでも、こんなカルチャー・センターか精神修養みたいな表現でなくて、もっと本質的なことを書くべきだと思う。この「自己」という言葉をそこまで嫌うのだろうか? だとしたら、かなりの反動だ。

改正案第12条 (社会教育) 


(1)個人の要望や社会の要請にこたえ、社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。

(2)国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館その他の社会教育施設の設置、学校の施設の利用、学習の機会及び情報の提供その他の適当な方法によって社会教育の振興に努めなければならない。

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2006年4月27日 (木)

教育基本法 第2条

改正案 第2条(教育の目標)

 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

1 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。

2 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業および生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。

3 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

4 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。

5 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。


現行法(教育の方針)

 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。


どこが違うか?

 厳密には現行法第2条と改正案第2条は対応しないだろう。現行法第1条で述べられていたことが、改正案第2条で展開され、現行法第2条で述べられていることは、改正案第4条にまとめられている形になっている。
 現行法第1条になくて、改正案第2条に盛り込まれているのは、道徳心、公共の精神、自然を大切にする態度、そして、例の愛国心にあたる(?)「我が国と郷土を愛する・・・態度」という表現などである。
 ちなみに、現行法での表現では「愛する」目的になっているのは、「真理と正義」である。改正案では、「真理と正義」は「希求する」ものになっており、現行法で「希求する」のは「真理と平和」である。この微妙な違いは何か? 共通部分である「真理」を除くと、現行法では、「正義を愛し、平和を希求する」ということになり、改正案では、「我が国と郷土を愛し、正義を希求し、平和に貢献することを願う」(改正案前文も参照すると)ということになる。平和をダイレクトに希求するのと、平和に貢献することを願うは同じようでいて、微妙のようでありながら、大きな違いがある。たとえば、PKOは、平和を希求する立場からすると、若干、疑問が生じるが、平和への貢献ということでは、なんとなく、その疑問の生じる余地が少なくなるように見える。レトリックと言えば、レトリックだが、こういう言葉のあやがいいように使われるのが法律だから恐ろしい。

 「愛する」という言葉に着目すると、現行法では「正義」だったのが、改正案では「我が国と郷土」になっている。「自然」については「大切にする」と改正案では表現されているから、「大切にする」と「愛する」には差異がある。「正義」は愛するものから「希求する」ものとなり、代わりに「我が国と郷土」が愛するものになっている。それで、この愛するものを最優先すると、上の方で述べた表現となり、なかなか、世界平和も限定的なものに見えてくる。これで、憲法も改正され、憲法の前文に掲げられた、世界平和が日本の生存と発展の前提という中身がなくなると、この「平和の理想」ははなはだ縮小したものとなる。ずいぶん手の込んだことをしているが、やはり、この改正案は危険だ。

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2006年4月26日 (水)

教育基本法 第1条(教育の目的)

改正案

 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。


現行法

 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。


何が違うか?

 現行法では、ここに「正義」という言葉がある。平和を形成する条件のひとつとして、正義を愛することがあげられているという構成になっている。
 改正案では、「必要な資質」とのみ書かれているが、現行法で第1条で書かれていてる中身は、改正案では、第2条で展開されている。

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教育基本法 前文

改正案

 我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り開く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。


現行法

 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。


どこが違う?(太字の部分)

1 どのような人間を育成しようとしているか?

 現行法では「平和」という言葉が入っているが、改正案では「正義」という言葉に置き替わっている。もちろん、正義は重要であるが、「正義の戦争」という使われ方が多くされる中で、一方で、「平和」という言葉が消えているのは、だいぶ怖いような気もする。ただし、文章の構成では、平和という理想を実現するために、正義を希求するという関係になっている。これは、現行法の方では、第1条で書かれていた内容(現行法では正義を「愛する」)である。

2 どういう文化の創造を目指しているか?

 現行法は普遍性と個性とを両方とも追求している。改正案では、普遍という言葉も個性という言葉もなくなり、「伝統」と言う言葉が入っている。

3 法律制定の目的

 現行法では、「教育の目的を明示」とはっきり書いているが、改正案ではこれがない。このことは大きな問題ではないか。目的を明示すると、いわゆる「基準」のようなものが種々、必要となってくる。ところで、この「基準」は「規制緩和」の中で、「規制」の一種であるかのような扱いを受けて来た。図書館でもしかりである。教育の最低水準が保障されるのか不安を覚える。


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教育基本法改正案の検討をしてみます

 前の記事で掲げた比較表、まず、前文が違っていた。これから各条ずつ比較してみたいと思います。

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教育基本法改正案やっとわかった

 教育基本法改正案がやっとわかった。しかし、これで、今国会で通そうなんてずいぶん強引な話だ。自民党と公明党だけで日本の教育を決められるんじゃない。

 現行法と改正案の比較表をつくってみようかと思ったら、気の効いた人がすでにつくっていた。

現行教育基本法と「教育基本法改正案」の比較
http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/education.html

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2006年4月19日 (水)

今の日本のいやなところ

 昔からそうだったのかどうかわからないので、「今の日本」のいやなところを書く。

1 まちが汚い。風景がだいなしになっている。看板や広告も汚いものが多い。パチンコ屋だらけも嫌い。

2 くだらない芸能人が偉そうだ。

3 政治家や大企業の幹部などにあまりに知性と品格がなく、その人相が悪すぎる。

4 なんか気持ち悪い爺婆が増えた。

5 子どもはおおむねかわいいし、若者も意外といいと思うが、ときどき、とんでもなさすぎるのがいる。わけがわからないほど、とんでもない。

6 車が格好悪い。どうしてこんな格好悪いものが海外でも売れるのか不思議だ。

7 やくざがのさばっている。

8 ケータイ馬鹿が多すぎる。

9 暖房が過度。敬語が過度。放送が過度。包装も過度。マニュアルが過度。試験が過度。

10 くだらないスローガンが多い。

11 同じ東洋人なのに、韓国人や中国人を悪く言いすぎ。

12 選挙で理性的な判断ができない。

13 長い物にはすぐ巻かれる。卑屈すぎ。

14 本当はそんなに仕事が好きなわけでもないくせに働きすぎ。働かせすぎ。

15 勉強しなさすぎ。勉強している人間を馬鹿にしたりするのが非常に悪い。

16 傍若無人の一方で、あまりの不寛容。(私は電車内のケータイくらいいいと思っている。使う人が多少配慮すりゃいいだけだ。)

17 いい大人や爺婆が子どもっぽすぎる。

18 頭を使わなさすぎるから、みんな、ぼけ老人の候補に見える。

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日本のいいところ

 私は日本が好きだ。それは、次のようないいところがあるからだ。

1 意見や考えが違っても、いちいち喧嘩しないで、適当なところで、みんなでうまくやっていこうという姿勢。

2 頭の悪いやつや賢いやつもいるが、それを必要以上に言いたてないで、賢いやつは頭の悪いやつの面倒もみてやる、また、頭の悪いやつも賢いやつの言うことは聴く耳を持っているところ。

3 桜が咲いただの、月が出ただの、雪が降っただの、自然現象としては当たり前なことであっても、美しいものを見いだし、それをみんなで楽しもうとする心。

4 説教するんでも頭ごなしに怒るのではなく、諭すように言うところ。

5 礼儀を重んじる一方、はめをはずす時空もつくり、そういうところじゃ面白いことやとっぴなこともするところ。

6 理屈ばかりとか、大げさな感情ばかりとかいった極端を嫌い、バランスをほどよくとりながらも、それでも新しいものも好きで、前進しようとするところ。

7 べつに見張られていなくても、勝手にさぼったりしないし、また、それなりに人を信用して、いちいちがんじがらめにしてめんどくさいことを言わないところ。

8 なんだかよくわからないほど、ひとつのことに通じている人間がいる一方、バランスよく洗練されて粋な人もいるところ。

9 だいたい適当なんだが、絶対、締めなきゃいけないところははずさないところ。

10 おせっかいでもなく無関心でもなく、無理強いをせず、人と人の距離がほどよいところ。

 でも、みんな、過去のものになってしまったような気がする。
 だいたい、愛国心なんていうものを法律で決めちゃったりするということが、この日本の良さとそぐわない。

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しつこいけど愛国心の話

 日本という国はいいところがたくさんある。
 しかし、嫌なところも少なくない。
 そういう状態で無条件に愛せと言われても、素朴にそういう感情がわかない。無理やり、強制されるとしたら、本当にいやだ。
 国旗や国歌はあった方がいいと思っている。だいたい、なかったら、オリンピックでメダル取ったとき困るじゃないか。だから、これを法定するのは、まあいい。
 でも、公募くらいしてほしい。はっきり言って、日の丸だの君が代のように、あわててつくったようなものなんかよくない。だいたい、ただの赤い丸なんてかっこよくない。君が代だって、あんな雅楽のできそこないみたいなもの国歌にふさわしくない。
 中身がどうのこうの、戦前のイメージがどうのこうの以前に、ちゃちすぎて、みっともない。みんな、本当にあんなものいいと思っているのだろうか。私なんかは、正直言って、ブラジルの旗やサウジアラビアの旗の方がよっぽど格好良く見えるよ。
 東京都がこんなものを強制している状態で、教育基本法に愛国心なんて、みっともなくていやだ。

 

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2006年4月17日 (月)

愛国心が人を殺すとき

 私は、やっぱり、愛国心とやらを信用できない。
 戦前・戦中の意味とは違って、国家を愛するということではなく、国民を大切にすることも含むというが、これも、「ひとりひとりの」国民を大切にするということではないのではないか?
 香田さんが殺された事件を思い出す。文字どおり、無鉄砲な行動だったが、平和を希求した彼なりの愛国的な行動であったはずだ。なぜなら、アラブと良好な関係を持つことは日本にとって極めて重要なことだからだ。
 愛国心というものが、ひとりひとりの国民も大切にするなら、小泉首相は断固、自衛隊をあの時、撤退させるべきだったと思う。自衛隊はアメリカのためにあるのだろうか?
 アメリカとの関係をまずくしたら、日本はないという発想なのだろうが、では、アラブとの関係はどうなのだ。あまりにアメリカに追従して、アラブでの日本の評価は絶対に低くなっていると思う。アメリカとの関係を、他の国際関係より優先するなら、それはまさに敗戦国の思想だと思う。
 集団的安全保障という名のもとで、アメリカとの関係を優先する場合、一人や二人の国民は見殺しにするということだ。ここに愛国心の正体があるような気がする。

 やっぱり、教育基本法改正は反対だ。

 貧乏人が東京大学へ行けないとかくだらないこと言っているくらいだったら、他の大学のレベルを上げることでも考えればよいではないか? 入試が難しければレベルが高いと決まっているものではない。もちろん、易しすぎたら、レベルは低いだろうが。ほどほどでよい。

 大学全入時代を問題視する向きもあるけれども、メリットだってある。国民の教養水準の最低限は上げることもできるのだ。それこそ愛国心ばかり教えていて、他のまともなことはろくに教えなかった時代のかわいそうな人々のはかりしれない無教養ぶりのようなことはなくすことができるのだ。

 図書館なんかで仕事をしていると、教育水準の底を上げることのメリットを大きく感じる。エリート養成を課題にする人もいるが、教育水準の底が上がらないと、この課題には本格的には着手できない。

 この意味はわからない人がいるかもしれないが、たとえば、図書館の仕事の場合、本当は非常に高度なエキスパートの仕事も必要である。しかし、全体の水準が一定以上でないと、そういう人を養成しても働く場がないのだ。これは何だってそうだろうと思う。エキスパートだのエリートだの言ったって一人で仕事をしているわけではない。一緒に仕事をしている人がレベルが低すぎたら、どうにもならない。社長がいくら優秀でも社員が馬鹿だったら、会社がうまく行かないのと同じだ。

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ベストセラーうんぬんのつづき

 寝そびれてしまった。日曜は激込みで、帰ってきてから疲れてそのまま寝てしまい、夜の10時すぎに目を覚ましてしまったものだから、眠れなくなった。
 さっき、ひっそりとした夜中の街を歩いていたら、遅咲きの桜や八重桜が咲いていて綺麗だった。私は結構、この遅咲きの桜もゴージャスで好きだ。もう散ってしまった方の桜は清楚な感じがするが、その前の梅の方がもっと清楚である。

 ベストセラーの話はわかりにくかったかもしれない。

 ベストセラーなんて、どうせ予約待ちに並ばなければならないし、それを余計に買う分で、コンスタントに借りられる本を買えば、そっちを借りに来る人に振り向けられるということだ。それで、これは利用者拡大にもつながる。ベストセラーを借りるような人自身がそっちに回るかというと、それは望めない。ベストセラーを借りる人は、ベストセラーばかり読んでいる。本当に流行りを追っかけているだけなのだ。
 しかし、もうひとつ、視点がある。よほどいい本を除けば、ベストセラーなんて、数年でろくに借りられなくなる。あんなに予約が続いていたのが嘘のようにということになる。予約の続き具合だと、十年かかるのではないかというものさえ、続かなくなる。なぜか? ただ流行りを追っかけているだけの人だから、数年もすると興味がさめて、予約をキャンセルしちゃうか、予約したことも忘れて流れてしまうか、また、待ちきれずに自分で買ってしまったりするからだ。ただ、一番、最後は少ない。なにしろ、この手の人はけちんぼばかりなので。
 ところが、コンスタントに借りられる本は、内容が古くならない限り、何年もコンスタントに借りられる。だから、実際には、こちらの本がベストセラーよりもよく利用されると言っていい。
 内容が古くならないという意味は、法令だとか規格だとかが改定されたりしていないという場合とやたらと技術等の進歩が速い分野でないということである。そんなものあるのかと言われると意外とあるのである。工学分野でさえある。枯れた技術とでもいうのだろうか、ある程度確立された分野などである。また、コンピュータのように目まぐるしい分野でも、ごく理論的なものや思想的なものは古くても通用する。並列処理がある程度、できるようになったって、あいかわらず今のコンピュータはノイマン型だ。
 一方で、みんなが常識的に思っていることでも、そうでもないものがある。たとえば、生物の分類。これは、私が子どものころの百科事典などとは大きく異なっている。生物をどのように分類するかという考え方はずいぶんいろんな説が出されているのだ。それにだいたい、進化論とて確立されたものではない。歴史なんかもずいぶん書き替わっている。歴史の本は古くてもいいということにもならない。
 こういうところは、先入観でなくてよく観察しないといけない。
 ところで、わざわざ古いものを求めて図書館に来る人もいることを忘れてはならない。パソコンなど中古品を使っていて、ソフトなどの解説がないため、図書館の古い蔵書を求めてくる人がいる。古いソフトの解説だからといって安易に除籍したりしてはいけない。百科事典や辞典も古いのもとっておいた方がいい。新しく加えられた言葉もあるが、削られている言葉もあるのだ。「教育勅語」の解説など、古い百科事典の方が同時代の認識がわかってかえっていい場合もあるのである。そういえば、「新しい憲法のはなし」(昔、文部省が出した)なんかもいい例だ。憲法改正が言われる今、原点に帰って確認する必要がある。

 要するに、私が言いたいのは、ライフサイクルの長い本があり、そういう本の方が、結局、利用の累計は多いのだということである。テレビやラジオなんかと違って、1冊読むのに結構時間がかかる本という媒体は、この辺、よく考えないといけない(当然、雑誌や新聞は視点が違ってくる。これは、テレビ・ラジオに近い)。

 あ、それから、インターネットは新しい・・・というのも大誤解。蓄積するメディアとして活用するということをこれからは考えるべきだ。なにしろ、検索がすごく便利なんだから。

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ベストセラーが図書館の貸出増加に貢献しない単純な理由

 貸出至上主義とかをあおり立てている人たちが、図書館がベストセラーをたくさん購入して貸し出していることをやり玉にあげているが、これは、まったく公共図書館の実態を知らない人の考えそうなことだ。
 まず、ベストセラーをたくさん買うと言ったって限度があり、「予約待ち」がなくなるほど買うなどということはできない。実際には、相当たくさん買っても買っても、予約が続く。だから、効率が悪いのである。予約待ちの状態は貸出の数にはならないのである、当たり前だが。予約がたくさん入っているからと言って、はやく読んでくれるわけではない。年間20〜30回程度1冊について借りられるのが限度なわけである。いくらたくさん買ったって、1冊の本を読むのには1〜2週間くらいは最低かかるのである(暇人の場合と内容の薄い本を除けば)。
 貸出の実績を上げるためには、こういう本よりも、1回借りられるごとに予約がひとつずつコンスタントに入るとか、予約は入らないが、返却されるとすぐ借りられるというような本の方がいいのである。要するに予約待ちもなければ、棚に置かれる時間も短い本が一番、効率がいいのである。
 そして、こういう本はどういう本かというと、ベストセラーなんかではなく、実用書である。今度、施行になった改正会社法とか、インターネットの本とか、そういうものなのだ。だから、本当に貸出実績を上げたい図書館なら、ベストセラーなんかよりもそういう本を多様にそろえた方が絶対によい。なぜ、この単純な真実を皆、気がつかないのか、さっぱりわからない。センエツながら、私に館長でもさせていただければ、絶対ここを中心にそろえる。まあ、もう、永遠に館長になることはないだろうが。ヒラの自分はこういう線を中心に選定しているが、だいたい中央館の方で切られてしまう。なにしろ、ビジネス関係は馬鹿図書館屋は嫌いだし、3000円越えたくらいですぐ高いとかいう貧乏根性だからしょうがない。でも、そんなこと言っていたら、図書館はまともな発展はしない。
 はっきり言って、貸出主義なんか本当に実践している図書館は非常に少ない。全然、ピントはずれである。貸出を本当に伸ばしたかったら、そういう、住民・利用者が何を知らないと困るのかということを知らないといけない。こんなのはベストセラーと関係ない。会社法だとか履歴書・職務経歴書の書き方とか、そんな本の方がはるかにコンスタントに需要があるのだ。もちろん、地域による違いもある。人文地理・地域社会学的な話になるかもしれない。こんなことを言ったら、田舎の人は怒るかもしれないが、私が勤務している図書館に置いたら、常に貸出中になって、書架にはほとんど並ばないだろうと思われるパソコンの実用書が、田舎の図書館の本棚にはたくさん残っていて、端末で貸出状況等をわかる範囲で調べても、都会とは違うことがわかりびっくりしたことがある。はっきり言って、コンピュータ利用に対するモチベーションは田舎の方が低い。しかし、田舎ならではの資料や情報の要求というものもある。何でも都会の図書館のまねをしたってうまく行かない。だからこそ、図書館は地方自治体が設置・運営すべきなわけだ。
 ベストセラーは、確かに面白かったりいい本もあることはあるが、それが、他の本より飛び抜けているわけではない。本当のところは、何を読んだらよいかもわからないような人たち、ただ話題や流行だけを追っている人たち(実は老人の方が多い)、他の人が読んでいるものややっていることが気になる人たちが追っかけているだけである。だから、流行ってもない本だって、これは流行っているんですよとか適当なこといって図書館にコーナーをつくれば借りられます。ただし、頭の弱い人でも読めるような本にしなければなりません。ただ、それだけの話です。

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2006年4月15日 (土)

議員の調査

 品川の自民党の議員たちが、調査費を使って、スナックなどで2年で800万くらい使っていたそうだ。1年で400万として、図書館で、この分、本を買ったりすると、結構なコレクションができる。

 もったいない。

 品川なんて図書館は委託までしちゃって、委託のスタッフは薄給で働いているというのに。

 調査なんていうんだったら、本来、まず、図書館でしょ。文献も情報も収集しない調査って、一体、何の調査なんだ??

 公共図書館は、教育法の体系にあるわけだが、議会の図書室は地方自治法の中にある。それも、議会の調査権との関係で位置づけられている。ところが、議会の図書室がまともに機能しているところなど、数えるほどしかない。

 これじゃあ、地方自治というより痴呆爺だよ。

 調査した結果は、報告が出ているのかな? ちゃんと「紀要」みたいにして、ウェブで発表するとかしてほしいもんだ。

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2006年4月13日 (木)

またまた愛国心について

 私は読売新聞を購読している。この新聞がとくに好きだからではなく、押し売りがうるさいので、めんどくさいからとっている。まあ、新聞のひとつくらいは読みたいから。
 朝日新聞を偏向新聞という人がいるが、読売も負けず劣らずである。原発なんて全面的に推進派である。愛国心についても陳腐な社説が4月13日の新聞に載っていた。
 私が書いたことと逆さまなことを書いている。
 私は、愛国心は個性を大事にすることだと書いた。読売の社説は個性の尊重の強調がよくなく、公共心を記すべきだという感じである。
 何度も言うが、私は愛国心や公共心という言葉が本来、指し示しているものは、むしろ大切だと思っている。しかし、それは、個性を尊重しなければ成り立たない。
 さまざまな国や文化、とりわけ自分の国や文化を大切にするとは、このグローバリズムの中で、文化や民族や国といった個性やアイデンティティを大切にするということである。だから、そういう姿勢の国の中で、国内になったら、とたんに個性には制限がつくのはおかしい。文化の個性とは、文字どおり、ひとりひとりの個性から由来する。
 公共心とは、自分の個性を大事にすると同様に、他人の個性も大事にしなければならないということである。自分を大切にする心と公共心との関係で言えば、愛国心とともに、世界という最大の公共空間への思いも大変、大事なものになってくる。これは、また、一般的に世界というものが存在するというだけでなく、他の一国一国、あるいは、民族、地域といったもののあり方も個性として尊重するということである。正直、認めにくいところも多々あるが、その本質においてはということである。

 個性と公共心をある種、対立したものと考えるのは、幼稚に思える。私のように公共図書館の職員をしていると身に染みて感じる。
 図書館の本を汚して平気な人がいるが、これは他者への思いが足りなすぎる。こういう人が少なくないと実感している。しかし、これが、いわゆる愛国心教育などで、改心してくれるとはとても思えない。
 こういう人たちは、たとえば、風呂などで借りた本を読んで、ふやけた状態で返してくる。その人自身の感覚ではその程度は問題だと思っていないので、それで平気で返してくる。図書館としてもそうだが、ふやけた本は異常な状態だと思う人は少なくない。こういう他の尺度は否定して、自分の尺度しか頭にない人が多いのである。
 たしかに、ふやけたぐらいでは、実用的な意味で本に大きな問題はない。美的感覚に過ぎないといえば、そう言えなくもない。しかし、美的感覚だって、重要な尺度だ。やはり、自分の尺度だけでなく、ありうる世の中の尺度を多少はイメージするというのが大人のすることだ。公共心なんて、そんなに難しいことではなく、実はこんなことなのである。他者へのイメージがあれば、世の中は暮らしやすい。「江戸しぐさ」などと呼ばれるものもこういうものが前提だ。もっと、ひらたく言えば、「粋でいなせ」であるということなのだ。

 やっぱり、こんなに咀嚼されていない「愛国心」なんていうものを法定するのは反対である。法定しないからといって、愛国心の実体がなくなったりするものではない。

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「愛国心」というのは日本語か?

 「愛国心」というのは変な日本語である。国を愛する心と読み下せばいいなどという問題ではない。だいたい、「愛する」なんていう日本語は特殊な日本語なのである、もともと。だから、公明党案じゃないが、かつてのキリシタンは、「神の愛」を「デウスの御大切」などと言ったのである。
 それから、現代的な意味では、むしろ、愛の対象は人格である。人とか神とか。人格でないものを愛の対象とするのはフェティシズムである。国という概念に人格を認めるとなると大変な話だ。また、一方、そうでなければ、こんなフェティッシュな話を法律に盛り込むことの違和感はすごい。
 変なんだ、根本的に。
 愛というのは心の働きと見る向きもある。そうすると、「愛する心」などという表現も変で、単に「愛」と言えばよい。すると、「国への愛」「国に対する愛」ということになる。やっぱり変でしょう。「愛」という言葉が最近、流行っているから、こんな表現するのだろうが、結局は、「国に対する忠誠」ということなのである。だから、本質的に解明しなければならないのは「忠」という概念だけれど、これも、また、本当のところ「国」に対して向くのだろうか? 「忠君」なんですよね、本当は。やっぱり君が代なんだ。今の代も。これで、憲法改正して天皇を国家元首にしたら、そのままじゃないか。軍だって、決して国民軍ではなく、天皇の軍隊である。

 こういうことからすると、郷土愛から愛国心を説くのは無理がある。

 アイヌや沖縄の人が、本当に郷土愛に燃えたらどうなるか。この人たちの郷土愛の延長線上にある愛国心は、アイヌ国家や沖縄国家への発想につながって不思議ではない。日本は単一民族国家ではないのだから、その辺、よく考えないといけない。

 その意味では、現行憲法で天皇を国民統合の象徴としているのはよくできているのである。大和民族だけの天皇ではないのである。

 しかし、人格的存在が象徴というのは、やっぱりおかしな話でもある。ここらへんは、人間としての天皇を嫌いではない(むしろ親しみの方がある)私としては、なかなか難しく感じる。

 こんなこと、昔、言ったら不敬罪だろうが、天皇が格好良かったりしなくてよかったとかえって思う。「普通の人」に近く感じるからだ。そして、普通の人というのが、一番、大切で立派なのである。だから、天皇家も、できるだけ普通の暮らしをしてもらいたい。そうすれば、構造改革とやらをやって、普通の暮らしを落とすということが、どんなに罪なことが実感できるというものだ。

 まあ、言葉遊びをしてしまったが、「ことば」は「こころ」があるからある。そして、「こころ」は「いのち」があるからある。「愛国心」という言葉、あるいは、それをごまかした表現が、本来、それが指し示している心を損なっているのではないか? そして、その心の源泉、あるいは、淵源であるところの「いのち」を軽んずる、つまり、愛国心のために命をささげるといったような逆転があるなら、もう、その時点で誤りである。

 香田氏が殺害されたことなどは、本当にこの逆転である。本当にこころがあるのなら、たった一人のためでも、自衛隊を動かさなければならない。こころはいのちのためにあり、ことばはこころのためにあるのである。

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教育の基本とは

 教育の基本とは、ひっくり返して言えば、学ぶことの基本である。ところで、学ぶとは、ある意味、模倣である。模倣とは、そのまま再現することである。そのまま再現するのであるから、かなり高度な自由が保障されていないとならない。
 ちんちん丸見えの彫刻を模倣しようと思うのなら、ちんちん丸見えの彫刻をつくらなければならない。勝手に葉っぱなどをつけるべきではない。この場合の葉っぱは個性でも、自分なりの消化でもない。
 本当の個性とは、まねしてもまねしても、どうしても出てしまうその微細な差である。
 文化が伝わる時、この微細な差が積み重なって行く。
 だから、ちんちんを隠す葉っぱのように明らかなものではないから、模倣ということすら分からなくなってくる。学びというものにはそういう本質がある。
 自国の文化がどうのこうのと言ったところで、微細なところで世界の文化が沢山入っているのだ。ここが重要。

 ところで、文化はカルチャーというが、パーソナル・カルチャーという言葉もあるようだ。どの程度使われているのか知らないが。「教養」というような意味らしい。文化を集団的なものとしてだけとらえないなら、まさに個性は個人文化である。

 個人というのも、結局、自分が属している集団の文化を模倣している。しかし、それでも差異が出る。この差異が大きい人はいじめられるが、本人としては精いっぱい模倣しているので、なんでそんなに排撃されるのかわからない。

 日本などの場合、その起源から、まったくオリジナルなものというのは意外と少ないと思う。まさに模倣の中からにじみ出た差異=個性に日本らしさがある。

 してみると、日本の愛国心とは個性を大事にすることである。個性を大事にするということは、必然的に多様性を前提とせざるをえない。ユーラシア大陸の東端で、当然、いろんなものが行き着く所なのだから、多様なものが煮詰まるのは当たり前である。

 日本にとって、結局、愛国心とは世界を前提としている。そこが中華思想とは違うのだ。
 学ぶことの基本は、結局、多様な個性を大事にすることなのである。教育の基本もそうである。そして、その前提に高度な自由がなければならない。それで、はじめて、日本の愛国心が成り立つ。

 今の教育基本法改正の流れは決してそうなってはいない。

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2006年4月12日 (水)

愛国心 その2

 自民党と公明党は、教育基本法改正案の愛国心の表現について一致したようだ。「我が国及び郷土を愛する態度」ということになるようだ。ここで、国というのは政府のような統治機構は含まないということになったそうだ。一方、愛国心が明記されないなら独自案を議員立法で出すと、自民・民主を中心とする超党派議連「教育基本法改正促進委員会」(委員長=亀井郁夫参院議員)は言っているらしい。亀井氏はスチュワーデスのアルバイト化に反対したり、死刑廃止運動をしていたり、小泉改革が民主主義から逸脱していることを主張したりと買っているところも多いのだが、こんな法改正を進めるとするならがっかりだ。
 「態度」という言葉と「心」という言葉に大きな隔たりはない。「心」とは、いわば「脳の態度」と考える人はたくさんいる(学者も含めて)。だから、表現はどうであれ、愛国心であることには変わりない。政府に対する愛ではないということで、うまくごまかしたように見えるが、ことはそんなに簡単ではない。
 戦前・戦中の「国体」だって、政府のことではない。国家主義における国家とは、統治機構のみ示すものではない。むしろ、そのような「機関」概念ではないとさえ言っていいと思う。機関と考えるだけ、まだ進歩的なのだ。だから、天皇機関説は排撃されたのだ。
 機関に対して愛を抱くなどというのはもともと不自然である。
 国家とは、文字どおり、誰かを家父長とする大家族なのである。「家」の思想なのである。自分の家族を愛するのは当然だから、自分の国家も愛せというのは当然のように思えるが、自分の家族を当然のように愛せない状況も多々あることをよく考えるべきである。無条件にそうせよということは誰も言えない。無条件に愛せということになると、それは神である。
 これは、神がない日本だからこそ危険である。それで宗教的うんぬんを持ち出しているのかもしれないが、順序が逆である。そしてまた、それをこういう法形式で定めるということの危険性は測り知れない。政府でないから、国民との関係は「特別権力関係」ではないということになるかもしれないが、「国家と国民との特別な関係」であることには変わりない。家族のために自分が犠牲になれという命令(?)に無条件にあなたは従えますか? よく考えて欲しい。
 儒教だのキリスト教だのイスラム教だの仏教だの、みんな家族愛は説いているが、それは、神に対する愛や真理把持や「天」(あるいは「天命」)に優先するものではない。神や真理や天命のためには、ときには家族を捨てろとさえ説いているのである。宗教とはそういうものだ。
 だから、中国の易姓革命などは、天命によって、国家体制を滅ぼすのである。これが「革命」である。そういう場でもあくまでも、ロイヤリティ、あるいは、正当な手続き(生命を賭してでも諫めるか、禅譲を促すといったようなものだろうか)を重視するのが伯夷叔斉である。しかし、これも愛国心とは違うのである。いわゆる革命権を認めるのか認めないのかという立場の違いでもある。伯夷叔斉とて、殷の紂王がやっているよこしまなことを認めているわけではない。単なる統治機構ではない国家という大家族内の大きなもめ事をどう解決するかという時に、愛国心などという思考停止は昔だってしていないということになる。政権は確かに周王朝に移ったが、家としての殷は実は、周になってからもしばらく残されているのである。ある意味、伯夷叔斉は現代的ですらある。暴力革命をそんなに簡単に認めたら、なかなか大変なことになるのだ。暴力をもって暴力を制することはできないとは至言である。
 繰り返す。本当のロイヤリティというものは、愛国心などとは次元が違うのである。
 また、さらに「愛」というものは、そんなに限定的なものではなく、限りなく広汎なものなのである。だから、愛を法で定めたり、国に対する愛だけを特記したりしてはいけないのである。「愛」というのは、まさに宗教の核心なのであり、それ自体が真理とされ神とされているのである。一国の法律にこのようなことを書くのは神の名を語ることに等しいのである。
 しかも、こんな大事な法律をこんなに簡単に変えてはいけない。
 教育基本法は憲法と同レベルである。少なくとも、改正にあたっては国民投票にかけるべきである。
 国民の教育の基本的な方針を憲法に書いてある国だってある。教育は国の基礎であるからである。教育によって国ができるのであるから、愛国心をア・プリオリなものにしてはいけない。愛国心より教育が先立つのである。教育が国に先立つのである。教育があって国が成り立つのである。だから、戦後は教育基本法ができて憲法ができた。
 今度は教育基本法を簡単な手続きで改悪してしまって、憲法を改悪しようとしている。とんでもないことだ!

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愛国心

 自民党と公明党で、教育基本法改正案の愛国心に関する表現で詰めを行っているようだ。
 実は、私は、愛国心そのものまで否定する考えの人間ではない。
 問題にしたいのは、なんで、そんなもの(つまり愛)を法律で定めるのかということである。
 愛国心を法律で定めるのだったら、人類愛から家族愛、友愛から師弟愛まで定めなきゃおかしい。愛国心がそれらの基礎だなんていうことはできない。愛国心はあっても、人類愛や家族愛、友愛や師弟愛によって「引き裂かれる思い」をした人はかつても沢山いたし、現在もいるのだ。
 愛とはそういうものである。ある特定の愛が他の愛に優先するなどということはない。
 愛国心だけ取り上げて法定するというのは、国家と国民の間に特別権力関係を築こうということである。これは、ひらたく言えば、国家が、国民に対して、国のために死ねと命令できると言っているようなもんである。敵前逃亡は銃殺。
 愛国心を法定するということは、国家と国民の間にある法律関係を定めるということである。この恐ろしさの認識がみんななさすぎる。
 愛国心が是か非かなんていう論議はくだらない。
 愛国心などというものは自然に存在するものであって、なおかつ自由に存在するものであって、実定法、ましてや成文法で決めるべきものではない。

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2006年4月11日 (火)

経済学文献目録

大阪市立大学経済学研究所
『経済学文献四季報』の電子情報化
1994年8月受け入れ以降

http://rdbsv01.ipc.media.osaka-cu.ac.jp/eri/search/php3/top.php3

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いい司書

 客について書いたから、こちら側についても書こう。

いい司書ってどんな人?

1 押しつけがましくないが、よりベターな方法を提案してくれる。
2 安直に「わからない」とは言わないが、わからないことまで知ったふりしない。
3 わからないことは、当のお客にも聴くし、他の司書にも協力を求める。
4 コンピュータでの検索の仕方や資料の探し方・見方、分類なども、適宜、説明してくれる。
5 偉そうでもないが、たよりなくもない。

意外と、全部満たす人は少ないですよ。

でも、これって、司書に限らず、店員だとか先生だとか医者・看護師なんかにもこうあってほしいと思う。
4番については、それぞれの職業で異なるだろうが、要するに、その職業で専門的なことであっても、今、こういうことをしているんですよとか、そういうことを説明してくれるということ。

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2006年4月10日 (月)

いいお客

 テレビで医者が嫌な患者について話していた。ああ、まったく同感だ。どの商売も同じなのだろうか。それで嫌な客については、いくらでも書けるが、そういうネガティヴ・リストでなくて、ポジティヴ・リスト、いいお客について書いてみる。

1 こちらの話や説明をちゃんと聴いてくれる人
2 他のお客のことも考えてくれる人

 って、これだけしかないよ!

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2006年4月 4日 (火)

格差社会

 私は私立で中高一貫の学校に行った。しかし、当時は、まだ、一貫教育を始めたばかりだったので、実際には、中学と高校は別であり、高校から入学してくる人もいた。大学進学の方もいいところに実績を残したいと先生が考え始めていたという程度の段階だったので、それほど極端なことをやっていたわけではない。ただ、2週間に1回、試験があった。でも、これも、実質1カ月に1回である。科目を分けて、2週間ごとにやっていただけなのである。まあ、そういう意味では、中間・期末という試験のサイクルと大幅に違うというわけではない。

 この試験結果は当初、完全に順位を示して渡された。でも、貼り出したりしたわけではない。上位の人は名前を言われたが。完全に順位を出すと、多少の変動がある。これに神経質になりすぎる人がいて鬱陶しかった。それで、私は先生に意見して、こんな1つや2つの順位の差なんか意味がないんじゃないか、A,B,Cとかのランク分け程度でいいのじゃないかと言ったら、その通りになった。

 差ができるのはしょうがない。しかし、それは、ものさしの上に並ばるようなものではない。オリンピックで金メダル取った人だって、他の大会では3番目くらいになったり、そういう変動はいくらでもある。競技会ならともかく、一般社会の評価で、そこまでやるのは、やりすぎというより意味がないと思う。

 評価ができないというより、評価のし過ぎなのだと思う。そんなに細かくなくて、たとえば、ある人を「とびぬけて出来る人・かなり出来る人・できるかどうかわからないが頑張っている人・まあまあな人・ちょっとたりんなあと思う人・はっきり言って、かなり努力してもらいたい人・もういてほしくない人」くらいの段階で十分だ。それで、たいがいの人はまあまあな人っていうことになる。

 合理性のある範囲の格差は肯定するが、それの再生産は絶対反対である。だから、教育格差は絶対に私は許せない。学校の問題ばかりみんな着目するが、図書館だって立派な教育資源である。この点もみんな考えて欲しい。それから、医療は、どんな人でも尽くして欲しい。能力や実績に差はあっても、命そのものまでに差はない。

 図書館の場合、非常勤職員の導入や委託・指定管理者制度の導入で、まったく不合理・不条理な格差が生じている。これでは、いくら頑張って図書館のことを学んでもなんにもならない。確かに、少数の自治体で正規職員の司書の採用試験も行っているが、極端に少なすぎる。ここまで極端だと、この試験に受かって採用された人が、自分はエリートであるかのように誤解しないかかえって心配になる。

 この差は、あまりに荒っぽすぎる。だいたい、行政改革なんていうのなら、効率の悪い一般職員をたらい回しするシステムを改めるべきだ。ジェネラリストなんて言って、職員をがらがら人事異動するのは、職員が余剰気味の時代にできた話であって、これからはできない。地方自治体であっても、それぞれの分野で専門家を採用すべきである。また、私はとくに理工系の人が必要だと思う。一般の会社と違って、文科系の人間ばかりの弊害が役所には顕著に現れていると思う。図書館も例外ではなく、公立図書館の理工系のコレクションの悲惨さは目を覆わんばかりである。

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なぜ人を殺してはいけないのか(その3)

 殺さなくても、そのうち死ぬ。
 死んでほしいと思おうが、死んでほしくないと思おうが、そのうち死ぬ。
 死にたいと思おうが、死にたくないと思おうが、そのうち死ぬ。

 「死」は「生」が決めることではない。

 生きてほしいとも死んでほしいとも思わず殺すのは、自分が生きたいために食べるときだけ。

 「生きる」ことは文字どおり、命の命令なのだ。

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2006年4月 3日 (月)

なぜ人を殺してはいけないのか(その2)

 タイトルの質問が「はてな」にあった。

 しかし、正直、むちゃくちゃな質問で、倫理・宗教・法律や情に訴えるのはなしでということだった。

 「法」と書かずに「法律」と書いているあたり、理工系の、自分では頭がいいと思っている人だなと思った。オウムとか原理とかにはまりやすいタイプだ。

 倫理も宗教も法も「情に訴える」ということもみんな、本質的には同じ。法律なんていうのは、全然、レベルの低い話。

 この本質的に同じであることを抜きにしたら、人を殺してはいけないなどとは言えない。ただ、それだけである。「人を殺してはいけない」ということ自体、倫理であり、宗教であり、法であり、情に訴える話だからである。そのどれもないのなら、人を殺してはいけないとは言えない。しかし、そのどれもないなら、それは人間というより、むしろロボットである。そういう人間(いやもはや人間でないのか?)は殺していいのかと尋ねられれば、私はダメだというが、死刑制度は、これを認めていると言ってもいいかもしれない。すなわち、この場合、死刑とは、もはや人間を殺すことではないのである。しかし、こうなってくるとなかなか話が難しい。人間を殺そうとする人間を、もはや殺そうとしているから人間ではないと考えれば、人間でないから殺してもいいことになってしまう。こういうあたりが、正当防衛とか死刑とか戦争の起源だろう。安楽死や堕胎(あるいは妊娠中絶)や自殺の問題までには広げられないが、倫理や宗教や法や情によって人間が生きもし、死にもするということから言うと、同根の問題である。だから、同じ「宗教」(反宗教?)のオウムなんかも、救いと称して殺しをする。実際はそんな高尚な問題ではなく、もっと現実的な何かがあったと思うが。

 殺しはいけないが、誰かが死ななきゃ、誰かが生きられないという状況はある。これはもっと難しい。ただ、シンプルなのは、「生きる」ということがはるかに「死ぬ」ということより価値があるとすれば、誰かが死んでも、誰かを生かすことは価値があることになる。「死ぬ」ということが非常に悪いことであるならば、誰かを生かすために、誰かが死ぬのも悪いことになる。前者は、悪いことはあったが価値あることもあったということになるし、後者は、価値あることはなくなってしまったかもしれないが、悪いことはなかったということになる。どっちがいいかなんて、とても言えない。ただ、悪と罪はイコールではないと考えれば、前者の判断に傾くこともあるかもしれない。でも、これが拡大解釈されると、むしろ殺人を肯定することになる。

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2006年4月 1日 (土)

なぜ人を殺してはいけないのか

という厭な質問がある。

 いかにも、暗そうな中学生か何かが言い出しそうな質問である。また、B級知識人の好きそうな質問でもある。

 はっきり言って言葉の遊びである。

 人を殺すことがいけないのではなく、いけないことが人を殺すことなのである。いけないことは他のこともあるが、それらはすべてつながっていて一つの実体である。人を殺すことというのはそういう悪のひとつの振る舞いに過ぎない。

 善悪の彼岸なんていう本を書いた人がいるが、善悪が先験的に存在するのである。だから、経験科学で証明できる話でもなければ、認識や思考に依存する論理で証明できる話でもない。

 これを逃げ(思考の放棄とか判断停止とか神秘主義とか)という人はそう言えばいいが、真理というものはそういうものである。

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国民はもっと勉強しろ

 朝まで生テレビを見ていたが、もう、こりゃどうどうめぐりでどうにもならないやと思った。経済政策をどうこうしたって、どうにもならないものはどうにもならない。景気はよくなるが、それは一部の人に恩恵をもたらすだけだろう。
 つべこべ言わずに国民は勉強した方がいい。
 図書館を利用すれば、無料でかなり勉強できる。無料といっても、税金で運営されているのだから、堂々と利用すればいい。お客の方が「ありがとう」なんて言わなくていい。読みたい本がなければ、リクエストすればいい。くだらない本だったらひんしゅくを買うだろうが、まじめに勉強するための本だったら、高くても、なぜ図書館は買わないのかという論を張ることはできるし、よほど、程度の低い人間でなければ、議員や首長クラスの納得も得られやすい話だ。(やおい本なんかとうていダメだけどね。)
 勉強したって、ただちに反映するわけではない。しかし、それでもいいではないか。孔子もそう言っている。
 いやな金持ちは競争ばかりしているかもしれない。しかし、金持ち喧嘩せずということわざどおり、現実には、金持ちはつるんでいる。だから、余計、儲かる。
 貧乏人もくだらないことで喧嘩するのではなく、連帯することと学ぶこと自身を学べ。貧乏でも協同生活すれば何とかなる。現に、途方もなく貧乏な人で死んでいない人は、うまく協調して生きている。
 そういう意味では、パラサイトも少子高齢化も、外国人の増加もいいじゃないか。パラサイトしている諸君は、親が健康で長生きできるように孝行しなさい。親孝行を薦めたい。そして何でも協同でやれば安上がりで済むのだ。そして、悪い言葉では「タカリ」というが、仲間で助け合って、仲間の中から成功者を出せばいいのだ。貧乏人もチームをつくって、互助しろっていうこった。そういう意味では、組合とか社会(ソシウス)の原点に回帰するっていうことだ。その中に外国人がいれば、仲間が世界に広がるというこった。(現に、私の知り合いの社長にはそういう人がいて、そこの会社だけが輸入しているワインなどがある。これは、外国人の知り合いを若い時に得たからである。)
 でも、そのためには、勉強することだ。そういうところの質が、評価されていようといまいと、世界の中で高くなかったら、どうにもならない。潜在的なそのような知価が高まれば、あとは、それを、どう現実とマッチングさせるかという問題だけだ。
 親孝行と学問のすすめを言いたい。

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