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2006年2月27日 (月)

パウル・クレー

 パウル・クレーの展覧会を見に行った。知っている絵も、こんなに小さな絵だったのかと驚いた。昔、美術の先生が、うまい人が描いた絵は実際より大きく見えると言っていたので、クレーはやっぱり、うまいということなんだろうか。
 クレーは、いろんな手法を試みたそうだ。絵を描く道具も、何に絵を描くかについても。こういう実験を私も仕事でしないといけないんだろうなあ。

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2006年2月24日 (金)

一流の人は普通がすごい

 荒川静香選手、すごいね! どういう分野でも一流の人間になりたいものです。

 一流の人に共通して感じることは、「普通のこと」「基本的なこと」が秀逸というか完璧ということです。逆に言うと、ダメな人というのは、普通のこととか基本的なことを馬鹿にしているようなところがある。

 それから、一流の人っていうのは、すごいことが普通のことになっちゃっている。

 結局、「すごい普通」っていうことなんですね。

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図書館の選定には偏りがある

と言っても、プチ右翼ががたがた騒いでいる船橋の話ではない。最近のプチ右翼はちんぴら左翼からの転向組が多いため、思想内容はともかく、手法が左翼に似ている。出版物をやたらたくさん出すのは、左翼のお家芸だったのだが、最近は、プチ右翼の方が盛んだ。

 昔、図書館の蔵書が左に偏向しているなどと言われたことがあったが、出版物そのものが左のものの方が多かったのだから仕方がない。

 今は、むしろ、右の出版物の方が多い。その影響か、下流の人々が、かつてのナチスのように右傾化している。

 でも、ここで、話したい偏りとは、右とか左とかそんなことではない。

 ずばり、図書館は安い本ばかり買いすぎる。高い本を買わないから、ちゃんとした本がなく、きちんと学んだり調べられない。とくに自然科学や工学技術、そして医学が悲惨だ。

 右とか左とか言うより、こっちの方が大問題だと思う。これは単に予算が少ないからというだけの問題ではない。図書館の職員自体が、とてつもなく貧乏根性になってしまっているのだ。こちらの方がはるかに問題だ。貸出至上主義とかなんとか、ありもしない主義の問題ではない。単に、図書館の職員が100円ショップ大好き人間のようになってしまっているのだ。100円ショップにもいいものはあるが、そこで大量に買いすぎたら意味がないし、なんでも100円ショップで調達するというわけにはいかない。僕も100円ショップで名刺入れやら耳かきやら簡易な巻き尺なんかは買ったから、基本的には100円ショップが好きなんだけど、入り浸るほどではない。やっぱりもっとお金を出して買いたいものもある。すべて目線が100円になってしまうのは、やっぱり問題だと思う。

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2006年2月21日 (火)

腰を痛める

 なんか急に腰を痛めてしまい、整形外科へ行く。同じ姿勢をずっとしているのがよくないと言われた。パソコンのせいだな。背骨の軟骨が出てきちゃっているようなことを言っていた。体操ぐらいしよう。

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行政改革はまったく行われていない

 今、構造改革の一環として行政改革が行われているように言われているが、まったく行われていない、ポーズだけだと思う。
 ただ、ひたすら、人員と歳出を削減するのが行政改革だと思われている。ひたすら、人員と歳出を削減するから、当然、サービスカットも出てくる。
 こんなものは改革の名に値しない。こんなものは一種の無政府主義(アナーキズム)である。資本主義にもアナーキズムがあるということである。

 私は図書館の職員だから、行政全般についてまで言うことはできないが、少なくとも、図書館の行政改革は簡単であると思っている。
 制度的には、ずばり、3つだけである。
1 図書館に専門職制度を導入し、図書館固有の業務・サービスについては、専門職でないとできないようにする。
2 図書館の専門職については、従来の「司書」を抜本的に改め、図書館情報大学院大学を設置し、その他の司書課程や学科はすべて廃止する。海外の大学も含めて、ある分野で学士号を得た人が、修士以上の課程として、図書館情報学を学ぶべきである(つまり、専門分野が2つある)。ちなみに、教員も同様にした方がいいと思う。
3 資格取得の方式は国家試験に変更し、この大学院大学を卒業することによって受験資格が得られるようにする。また、資格は10年前後の年限のあるものとして、上位又はより専門的なランクの資格の試験又は論文等の審査に通らないと、資格は消滅するものとする。

 今、図書館の行政改革として行われていることは、委託だとか指定管理者制度の導入などであるが、こんなのは、「焼畑経済」で文化・教育環境の破壊でしかない。財政面での即効性はあるが、「土地」をダメにし、次世代の種子を殺してしまうからである。今、そうとう能力のある人が図書館司書になりたいと思ってもなれない。このことが最大の問題である。委託や指定管理者で雇われるスタッフは、昇格も昇給もないような単なるパートである。こんなところに才能ある人を充てるのはもったいない。今、図書館の正規になるのは容易でない。

 図書館についてだけ述べれば、現状は、人材と職務がまったくミスマッチなのである。図書館の仕事をしたくてしようがなく、なおかつ、その能力もある人が図書館で仕事ができない一方、図書館の仕事などまったくしたくないか、無意味に感じている人間や、まるで能力のない人間、あるいは、ただ好きな本を読んでいたいだけとかいう職業意識の欠如した人間が図書館で仕事をしていたりするのである。いや、役に立っていないから、図書館で仕事をしているとさえ言えない。

 だいたい、今、司書職制度の導入されていない図書館の職員など、次のタイプしかいない。

1 もうすぐ定年の人
2 問題職員
3 ただ本を読むのが好きなだけの人
4 いい意味でも悪い意味でも左翼
5 メンヘルさんないしメルヘンさん
6 以上の人の「おもり」ないし穴埋め・尻ぬぐいをする人

 まあ、6以外は「ろくでない」ように思えるが、そうでもない。もうすぐ定年でも立派な人もいるし、役所の方が問題がある場合は、問題職員の方が正しかったりもする。殺伐とした世の中では、世間知らずのメルヘンさんもたまには有用であろう。

 しかし、結果はともあれ、図書館の仕事のスキルと知識、プランや見識、理想と意志を持っている人間を意図的に配置しているわけではないことは明らかである。

 こんなことをやっていて、行政改革なんて進むはずがない。

 今、行われている行政改革などは、単に官僚制を増大させるだけである。
 図書館の職員など官僚ではないのである。行政のサービス現場を、委託などでどんどん切り落とし、最終的に残るのは、官房系と呼ばれる部分だけである。ここが官僚の巣窟である。ところが、この巣窟だけは、絶対、廃止されない。
 しかし、同じようなことは、民間でも行われている。名だたる大企業でも、実際には何も作っていないところは結構ある。OEMで、実際に作っているのは中小企業だ。その意味で、日本の中小企業は本当に力がある。はっきり言うが、大企業などなくなってしまっても困らない。力がある中小企業がなくなる方が深刻だ。
 今や大企業など、単なる事務所になっているところがある。これこそが、官僚制=ビューロクラシーである。官僚制とは、何も行政の専売特許ではないのである。
 大企業よりも中小企業、官房系とうぬぼれている「サービスを生産していない行政の部分」よりも、具体的なサービスを生産している行政の現場を重視すれば、日本はよくなります。本当です。
 ただし、今後、重要なのは、生産されるものが、単なる「もの」から「付加価値」「サービス」、あるいは、物的価値ではなくて、知的・情報的価値や文化的価値のあるものだということです。
 そういう観点で図書館をとらえれば、図書館が何をすべきか、図書館をどうすべきかなんていうのは簡単な問題です。
 ただの事務屋や管理屋がはびこるだけでは、世界の課題は何も解決しない。

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2006年2月17日 (金)

手当

 連ちゃんで呑み会だった。最近、酒飲むと、調子悪くなる。どこか悪いのかなあ。

 手当の話がでる。土日出勤の特殊勤務手当がなくなる話だ。私たちは月曜が休みの日になっているので、土日に出ても、休日給にはならない。平日と同じなのだ。もしかしたら、その埋め合わせで特殊勤務手当があったのかもしれない。

 私自身はどうでもいいのだが、そんなことでひがむ人がいるなら、とっとと廃止すればいいと思っている。しかし、厚遇というほどのものでもないとは思う。額もわずかだし。

 いっそのこと、月曜も開館して、年末年始と特別整理以外は休みなしでもいいやという話になった。そのかわり、一般の役所と同じに、土日を休みの日にしてもらい、その日に当番で出勤した場合は、労働基準法どおり、休日給をもらえれば、特殊勤務手当などいらない。というよりか、その方が、こちらにとってははるかに得だ。しかも、公務員だけの厚遇ということではなく、あくまで、普通の会社の人たちと同じ扱いなのだ。それに住民にとっても、休館日が激減して便利になる。でも、役所はそんな予算をつけるのはいやだろう。だから、一方的に特殊勤務手当を廃止するだけだ。休日給と特殊勤務手当を二重取りしていると勘違いしている人がいるような気もする。そういう人たちがわあわあ言っているような気もする。土日も平日と同じというのなら、労働基準法が休日給を決めている趣旨自体がわからなくなる。それでも、そういうもんだと言うなら、世間の人も土日も働いてもらいたいもんだ。こっちは、土日に出版社には問い合わせても人がいないことが多い。なにしろ、土日はお客はたくさん来るのに、問い合わせても休みのところが多くて困るんである。役所も含めて。

 まあ、くだらない手当などがんがん廃止していいが、バランスや法律の趣旨は考えるべきだと思う。そういうのをあまりに無視するから、家庭や地域が崩壊するのだ。本当はみんなが集まれる休みの日というのは大事なのである。結婚式とか法事とか土曜・日曜で行けないことが多く、私なんかはずいぶんうしろめたい思いをしている。もちろん、友人と遊ぶのもすごく限られる。土日は半分働いているので、そのうち、声もかからなくなる。こんなのはまだいいが、住民で、いつも自分たちの都合で土曜に会合を設け、図書館員が来ないと文句を言う人がいるが、来られないっていうの! だって、仕事しているのだもの。よほど早く言ってくれないとスケジュール調整できないのよ。

 休みの日は遊んでばかりいるような前提でものを考えるのはやめてほしい。社会的な意味が大きいのだ。

 まあ、月曜休みで便利なところもありますがね。郵便局や銀行へ行ったりできる。

 とにかく、世の中、極端はいけない。ほどほどがよろしいのだ。

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2006年2月15日 (水)

盗難防止装置の効果

 図書館の出入り口に盗難防止装置をつけたためか、不明本が大幅に減少のもよう。そういえば、私も数人、怪しい人を捕まえたからな。しかも、みんな、いい年したおっさん!
 汚らしいし、図書館の本は泥棒するし、一体、どんな取り柄があるんだ、この人たち!
 ギブ・ミー・チョコレート以来、いいかげんな人生歩んできたんだろうな。
 万引きするのは若者よりも、いい年したおっさんやおばはんが多いってこと、みんな知っているのかな? 手癖が悪いんだよね。図書館の本なんか、もともと無料で借りられるんだから、盗む必要なんかないんだから。ちょっと持ってっちゃえっていう感覚なんだよね。最低の人種。こんな連中が支持している政府なんだから、どうにもならないなあ。泥棒の泥棒による泥棒のための政治。泥棒民主主義。

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2006年2月14日 (火)

不穏な世界情勢

 パレスチナやイランで反米政権が選挙で勝って、これは、不穏なことになりそうだという感じがする。いよいよ第3次世界大戦にでもならなきゃいいがと思う。9.11以来のことが、その前哨戦に思えてならない。
 これは、イスラム世界内部の問題が裏返しに出ているのだと思うが、イスラム世界内部の問題は欧米がつくりだしたものだ。
 アメリカという国が、仮想敵がいないと存続できなくなってきているということがだんだん分かってきた。しかし、これまた、アメリカ内部の問題が裏返しに出ているのだ。

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2006年2月11日 (土)

市場化テスト

 市場化テストというのは、もはや、聖域は許さないという発想なのだろう。しかし、聖域という言葉からあのことが思い出される。聖書に書いてあるイエスがしたということだ。イエスはエルサレムの神殿で商売をしている連中に激怒して、ものをひっくり返したりして追い出した。神の家でものを売るなということだ。
 神殿ではないけれど、公の場で商売をするというのはどうなんだろうか? それは、公のものを私物化するという問題もあるけれど、その逆に私のものに公が侵入することも意味するように思う。
 民営化ばかり叫ぶ人がいるが、たとえば、図書館を民営化などしたらどうなるのだろう? もともと、民間である書店なんか困るのではないだろうか? つまり、図書館が無料制を捨て、レンタルビデオのように本を貸すのである。すると、図書館は、その料金でロイヤリティを払い、今までとは違って、ベストセラーなどももっとたくさん買えるかもしれない。しかし、それは書店には大打撃をくらわす可能性がある。もし、本もビデオと同じようにレンタルの方が商売的に割りがいいということになると、それに見合った本しか作るのが難しくなるし、売る本は縮小してしまうだろう。結果的に、文化的資源としての本の多様性は失われるし、日本の庶民文化を支えていた、多様な出版社、数多くの書店という環境は崩壊してしまうのではないだろうか?
 そしてまた、いわゆるベストセラーばっかりの図書館で、なおかつ、民営化されているような図書館に、果たして、どんな公共性があるのだろうか? そして、そういうところが、公共の直営でなくなっているにもかかわらず、税金がある程度、投入されるとしたらどうなんだろうか?
 最終的に、そういうところへ税金を投入するのもよくないということになると、図書館の経営は極端に厳しくなる。はっきり言って、数は激減するし、ビデオやCDと違って、読者の数が少なく多様な本ではレンタルが成り立たなくなり、正真正銘、ただ、1000種類にも満たない売れ筋だけを貸すところになってしまうのではないだろうか? 少なくとも、私にとっては、こんなところ24時間やっていようと、まるで魅力がない。でも、世間の人たちは、そういうものの方がいいのだろうか?

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2006年2月10日 (金)

独身貴族

 独身貴族なんていう言葉があるけれど、好き好んで、ずっと独身という人はいないと思う。ただ、世間体だけ気にして、たいして気も進まないのに結婚したりするよりは独身の方がいいという人が多いのだと思う。だから、かわいそうとも言えるが、気の進まない結婚をする人の方がもっとかわいそうなのは間違いない。少子高齢化なんかが進むと、独身であることは、まるで社会悪のように語られるが、そんなことはないだろう。一方で、ほいほい離婚する人や、家庭内暴力を振るう馬鹿夫や、もっとひどいのは両親無職の児童虐待なんていう実態がある。はっきり言って、こんな人たちは、はじめから結婚すべきではない。
 だいたい、人口バランスが崩れるのは、団塊の世代なんかがいるからで、これは、ある種、戦争の影響なわけだ。少子高齢化なんていう言葉でごまかしているけど、戦争というのは、終わってからも何十年も影響を及ぼすのである。太平洋戦争近辺の、ほとんど中身のない教育は、無教養な人間を異常なほど増やしてしまった。戦前でも、安定していた時期の日本の教育の方がよっぽどましである。戦争ほどじゃないが、学生運動なんていうものが流行っていたときも、まともに授業が行われなかったため、ここらへんの人たちも、体系的な知識を持ち合わせていない。口だけだ。あとは、校内暴力が吹き荒れた時期、それから、いじめ、不登校、ひきこもり、条件が全然ないのに行われた「ゆとり教育」の現代、これらの影響で、世代ごとに教育水準にはっきりとでこぼこがある。こういう影響を受けなかった、いわば「間氷期」の人々がまともな人たちという感じである。
 しかし、学力低下うんぬんで、とってつけたように行われるこれからの教育もあんまり期待できないような気がする。読解力でフィンランドなんかに大差をつけられてしまったが、そもそも、読解力なんていうものは、たくさん本を読まなければ身につかない。日本式の精読主義じゃだめなんである。
 だから、図書館。
 でも、図書館をはっきり軽視している(安上がり民間委託推進、指定管理者制度導入、予算削減、司書資格の軽視など枚挙にいとまがない)この国では、もはや、国民の読解力向上、いや、ドラッカー言うところのネクスト・ソサエティなど実現不可能であろう。かくして、日本は、このままでは、必ず貧富の階層が分化したアメリカのようないやらしい国に成り下がるだろう。いや、それ以下になる。アメリカでさえ、図書館は重視されている。韓国や中国も、今までは、図書館なんぞダメだったが、もはや、違ってきている。国や社会の姿勢も日本とはまったく違う。ここらへんにも追い抜かれるのは間違いない。
 知的なものを軽視している社会は21世紀に生き残れない。

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匂い

 今日は、館内で作業の日なので閉館。気持ち悪いじじばばのお相手しなくて済んでほっとした、というのが本音。こんなことを言ってはいけないのだが、昔のほのぼのとしたお年寄りと違って、最近の年寄りはホントたまらないのだ。
 私は、別に初めから年寄り嫌いというわけではない。就職したての20年くらい前は、むしろ、お年寄りの方が客として好きだった。あの方々は、もう亡くなってしまっている方も多いのだろうなあ。まったく、同じ日本人とは思えない。

 バスに乗ったら、となりのおじさんがとんでもなく「おやじくさい」、本当に臭いので、1つ前の停留所で降りてしまった。あの乳臭いような、独特のおやじくささである。香水っていうのは、若い人よりむしろ、おじさんのために開発した方がいいように思う。

 そういえば、年寄りだけでなく、おじさんも、私が子どもの頃は、いかにも紳士然とした人がいたが、最近、そういう人にもとんとお目にかからなくなってしまった。

 子どもから、みんな、なんとなく変になってしまっている。やっぱり、世の中全体が、何か変なのかなあ。

 ただ、私が今、勤めている図書館には、どういうわけか、昔っぽい、いい感じの、本当に子どもらしい子どもが結構来る。それで、昔懐かしい、いい感じの児童書を自分で借りていったりする。

 なぜなのか、いろいろ考えているんだが、なんだかんだ言って、落ち着いた住宅街もあるところだからなのかなあと勝手に推察している。成金ばかりの街もその逆も、いかにも、郊外というところも、どうも、変な雰囲気がただよっているが、そのどれでもないからなのだろうか? 「匂い」がいいんだな、きっと。

 街の匂いがなんとなくいいところは、人間もなんとなく落ち着いている。

 いい匂いのする街とは何か? 多様性のある街である。街の中なのに、なぜか、農地がちょこっとある。町工場もある。小さな会社もちらほらある。お金持ちの家もあるけれど、会社の社宅や寮のようなところも結構ある。アパートやマンションもあるが、昔ながらの一戸建ても結構ある。いかにも昔からある商店もあるが、今風の大型店舗もある。喫茶店やカフェが多い。ファストフードやファミレスもあるけれど、きちんとしたレストランもある。そして、なによりいい感じの本屋がある。ない、もしくは、少ないのは、パチンコ屋、ゲームセンター、風俗。ネットカフェは、なんか品の悪いところではなく、小綺麗か、本当にほのぼのした感じのものだけがある。あと、いい感じのお菓子屋が和菓子も含めてある。せんべいをガラスの壺ようなものに入れて売っている。お茶屋が香ばしい。薬屋がぎらぎらしたドラッグストアじゃなくて、カエルとかぞうさんが店先においてあるようなところ。花屋が多い。八百屋・魚屋・肉屋という三点セットがちゃんと並んであったりして、そこそこ人がたかっていたりする。公園では、浮浪者じゃなくて、ちゃんと子どもが遊んでいる。いいアングルで空が見える。昔風の銭湯や酒屋がある。居酒屋もあるけど、やたら多くない。いわゆる定食屋がある。ブティックもあるけど、昔風の洋品店もある。写真館がある。映画館もあるといい。

 だんだん、昭和30年代村みたいになってきてしまった・・・。

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2006年2月 9日 (木)

不眠症

 昨晩、全然、眠れなかったもんだから、辛いです。
 あれ、やっぱり、からいとつらいは同じ字?

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2006年2月 8日 (水)

昔話に出てくる年寄り

 昔話には、いい(正直な)じいさんばあさんと悪い(欲ばり・どケチ)じいさんばあさんが出てくる。
 毎日、この悪い方にからまれているから、年寄り自体が嫌いになるんだろうなあ。いい年寄りといえば、自分の義理のおばあさんとかそうだったなあ。キセルをカーンとかやってカッコもよかった。
 近所に住んでいたばあさんもヒマなのか、よくうちに来て話し込んでいたが、いつもお菓子を持ってきてくれた。うちには縁側があったのだ。うちの母もこれといっていやがることもなく、洗濯物をたたんだりしながら話をしていた。話をしているうちに、他のお客さん(郵便局、酒屋、千葉の野菜売りのおばさん、豆腐屋など)が来ると、ちょっと横にのいていた。話が長くなりそうだと帰った。意外と、昔の年寄りは、状況判断がきちんとできていたのだ。
 子どもだってそうだな。昔は子どもどうしで遊ぶか、ひとりでおもちゃなどなくても適当に遊んでいた。そこらへんにあるものを何かに適当に見立てて遊ぶということができたのだ。今の子どもは、山のようにおもちゃがあるのにあっという間にあきてしまい、なおかつ、大人に無理やり遊びの相手をさせるのも結構いる。そして、何より、ガラスを引っ掻くようなよくわからない金属音を発生する子どもが少なくない。
 なんでもかんでも昔の方がいいとは思わないが、ここらへんの雰囲気は昔の方が明らかに良かった。

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2006年2月 7日 (火)

毎日毎日変な年寄りばかり

 関係ないことばかり喋るし、何を意図しているのかわからないので、こちらから言い出したら、なぜだか急に怒り出した。「あんたはキジョウだ」と言ったようなのだが、何を言っているんだかわからなかった。「気情」ということだろうか。
 はいはい、結局、あんたの自己満足の話を聞いてろってことね。
 こっちがいろいろ案内すると、まるで聞いていないし・・・。

 この戦争前後あたり生まれの年寄りは、本当にがさつなのが多くていやだ。

 やっぱり、戦争っていうのは、国民の程度を、教育水準のみならず品格まで、著しく落とすな。戦争なんてあると、経済・産業・文化・教育・環境、どれをとってみてもろくなことがない。ドラッカーの本を読んでいたら、イギリスあたりじゃ、第一次世界大戦で社会を背負って立つような優秀な人がみんな戦死しちゃったと書いてあった。本当に、戦争はろくなことがない。戦後60年たっているのに、いまだに影響を及ぼしている。ちょうと戦争の頃に生まれた人が、傲慢で迷惑千万の年寄りになっている。

 こんな傲慢な人たちが、団塊となって退職して、押しつけがましいボランティアとかでやってくるのだろうなあ。ああ、いやだ、いやだ。

 昔の、のんきな年寄りが懐かしい。

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2006年2月 6日 (月)

出版社に行っただけ

 今日は休みだが、本当に何もしない日だった。何もしないというより本ばかり読んでいた。出版社に用事があって出かけたがそれだけだった。あとは、喫茶店やファミレスで本ばかり読んでいた。
 あ、あと、とあるビルのロビーに展示してあった絵みたいな書を見ていた。なかなかおもしろいものだった。
 ニートっていうのは、毎日、こんな暮らししてるのかな? でも、これで本も読まなきゃ絵も見ないんだったら、退屈すぎてどうしようもない。私はゲームなんてまるで興味がないからなあ。しかし、電車の中でも、最近の若い奴って本当に本読まないんだね。社会全体のこととか、経済全体のこととか、文明全体のことなんか考えることもないんだろうか? 喫茶店やファミレスで資格試験の勉強をしている奴はいるが、まともな本を読む奴が本当にいない。
 イメージがなければ、新しい社会なんて出現しないのにね。

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2006年2月 5日 (日)

ほりえもんが読書三昧

 ニュースによると、ほりえもんが独房で読書三昧だそうである。
 たぶん、そうだろうと思った。

 私自身、何もすることがなかったら、読書三昧になるからだ。

 まったくくだらない役に立たない本も多いが、そうでない本もまた多い。パソコンが使えなく、テレビも見ることができなかったら、間違いなく読書三昧だ。

 だから、テレビも電話も持っていなかった学生時代は、本ばかり読んでいた。1日に3冊くらい読んだときもあると思う。卒業するとき、家に持って帰っても置く場所がないので、相当な量を新規開店する古本屋さんに売った。自動車のトランクや後部座席にいっぱい積んでも何回か往復しなければならなかったのを覚えている。それで、当時の価格でも7万円くらいになった。Jプレスのブレザーを買った。

 刑務所にも図書室があるところはある。小菅刑務所にはあるのだろうか。

 まあ、もし私が犯罪でもすれば、図書担当にさせられるだろう。犯罪なんかしませんが。ただ、今のように法律がどんどん改正されると、上司に暴言吐いたなんていうのも犯罪にされてしまうかもしれない。

 ニートとかホームレスの本当にいやなところは、本も読まない人がいることだ。図書館なんかにも来ているけど、ほとんど一日中いるくせに、読むのは、せいぜいスポーツ新聞と漫画・・・。つくづくダメな人たちだと思う。

 私はこういう人たちに言いたい。

 そりゃ、ハローワークに日参してもダメなんだろう。でも、何十回だめでも、求職活動はしてください。

 それから、何も仕事がないために時間があいていて、図書館に来ているのなら、スポーツ新聞や漫画やどうでもいい週刊誌なんか読まないで、日本経済新聞や週刊ダイヤモンド、エコノミストでも読んでください。それを読んでも何がなんだかわからないというなら、経済のやさしい入門書だって、図書館はたくさん買っています。貸出中なら予約すればいいだけです。

 わけのわからない人生訓の本など読んでも無駄だ。

 まず、現実がどうなっているのかをしっかり理解することが必要である。

 ほりえもんは犯罪者になってしまったけれど、読書については範を示している。貧乏とか、その他不遇の目にはあっているが、時間があるのだったら、とにかく、まともな本を読めということである。

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2006年2月 2日 (木)

短気な人が多すぎ

 今日、レファレンスでいろいろ尋ねてきた人は、みんな、短気だった。
 短気というより、自動販売機みたいに簡単に考えすぎ。

 なんでも、そんなにぽーんと出てくるもんじゃない。

 もう少し、辛抱してくれれば、それなりに提供できるのに。
 小さな図書館なのに、何でもあると考えている人たちは不思議だなあ。世界の本の多さを知らないのだろう。

 調べるっていうことは、それなりに辛抱が必要なの。

 何をやるにしたって、下準備とか後始末の方が時間がかかるんだよ。

 というか、下準備や後始末がしっかりしている人が仕事の評価が高いんだよ!!

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古い本でも片付けられない

 なにしろ、私のいる図書館は古本が多い。それで、そういうものを書庫に入れてしまえと思うのだが、結構、古い本でも借りられるものはある。その分野で有名な本だ。たとえば、『菊と刀』とか。しょっちゅう誰かが借りるわけではないが、1年に1度くらい、誰か借りているようだ。1年に1度だったら、書庫に入れてもいいとは思うのだが、あまり有名な本だと、なんとなく書棚に並んでいないのもどうかと思ってしまう。そうはいっても、有名な本がみんな並んでいるわけではないのだが、そういう中身が濃い本がないと、どうも、薄っぺらな本(内容的に)ばかりという感じになる。
 だいたい、自分のことを振り返ってみても、このような古いけど有名な本にどこで出会ったかといえば、図書館なのだ。なんでこんな古い本が置いてあるのだろうと思う。それで、中身を読んでみてなるほどと思うというわけなのだ。
 あんまり古い本ばかりでも、暗い感じになってしまうが、あんまり新しい本ばかりでも軽い感じになる。今の書店に行って、なんかつまんなくなる感じがときどきするのは新しい本ばかりだからである。もうちょっと古い本も置いてほしい。そういう意味では古書店とか新刊書店という区分はあまり意味がないと思う。これは、お客の立場というより売る側の立場による分類だと思う。再販価格維持制度という商慣行との関係の問題だけなのだと思う。
 本来、本はフローでなくストックだと思う。しかも、それは、今までのストックに継ぎ足して新しく全体のストックができるというものだと思う。本を出版するときには、その分野では何が足りないか、どういう視点がないのかということは一応、考慮に入れるはずだ。だから、既存のものとあわせて大きなコンテクストは形成される。
 そういう意味では、沖縄のクース(古酒)と同じかもしれない。

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